次のYouTubeには、SPレコードの生産工程があるのが珍しいので、内容はたいしたことないが紹介しておく。この動画にあるようにスイング時代のジャズは何よりも体を動かしてダンスをするためのもので、やがて流行しはじめた Lindy Hop と呼ばれるダンスがどんなものかがわかるという意味でも参考になると思う。この動画では Lindy Hop を Jitter Bug すなわち ジルバと同じ意味で使っている。




デューク・エリントンの音楽にあわせて踊られる Lindy Hop の例も見てみる。




話題を変えて前の記事の続きだが、中井正一は『過剰の意識』という文章で、前回あげた「歴史意識」についてこんなことを書いている。さすがに歴史意識といってもスケールがでかい。面白い文章なのでこれもあげておく。『変革』論者は、過去をリセットする類のことを安易に口にするが、無から、持続のないところから有は生まれはしないのである。


(以下引用)

私たちは常に口を開けば「現実」といっている。しかし、この現実について、私たちが何を知っているだろう。いわゆるサマツ主義といわれるトリビアルな眼前に見ている以外のほんとうの現実の何を知っているといえるだろう。私たちの肉体のどこの部分にでも何を知っているといえるだろう。足だとか手だとか、腹だとかいってみても、腹具合以上の感じ以外に何を知っているといえるだろう。ただ受身の何か、それが動き行動していることを肉体的に感じ見まもっているだけではないか。知っているといえるほどの何かを知っているだろうか。

足で立ち、手でものをもっている私たち自身を、自分たちは、はっきり知りつくしているだろうか。

私たちはただ受身で立ったり歩いたりしているだけである。知っているという以上、この手の骨格が、足の骨格から変わってきた何万年かの百年ごとの変革ぐらい知っていてよいのである。だのに何も知らない。ただその長いプロセスの結論として、ステッキを握り、握りこぶしを握って、時には相手をなじっているのである。

しかし、知るという以上、人間が地上に立ったという、二十万年の歴史、手が自由になった時の、その「自由」の感じを、まともに再び、継承し、意識し、受身でじゅうぶんに知らなくてはならない。

それからまた例えば、一人で独白をしてみて言語を創出した人間の長い、そして初めての愉快だったにちがいない気分をも、受身で知ってみるべきであろう。

そして、それらのことから、宇宙に、石ころだろうが、木ぎれであろうが、秩序と法則をもっているらしいことを発見した人間の初めてのたどたどしい驚き。これも思いかえしてみるべきである。

宇宙に、何も知らない宇宙に、こんな存在がただ一つ、いくら小さくてもただ一つできたこと、人間ができたこと、このことを、この世紀でもやはり驚くべきである。

たとえ五千年の歴史が、どんな誤りを犯していても、この二十万年の驚くべき現実に比べれば、四十日のすばらしい旅行の最後の一日に風邪をひいているようなものである。ただ一日いくら鼻をたらしていても、人間が鼻をたらすものであることを悲観して首をくくるというわけにはいくまい。

二十万年の勝利の跡が、今の、どの街のどんな隅にもころがっているのである。私たちの肉体のどの隅ににも。

嘘だと思うなら、立ちあがって歩いてみろ、嘘だと思うなら独言いってみろ、その簡単な事実こそが、二十万年の勝利のしるしである。

こんな単純な現実、これは遠い水平線のような現実である。しかしどんな巨大な建造物も、どんな罪悪も、このホリゾントの上にしかできあがってはこないのである。

この地平を離れるとどんなものも、過剰の翳を帯びてくる。何か力を失ったものとならざるをえないのではないか。いくらそれが巨大なスケールであっても。