最近のベストであった『息の跡』とワーストであった『ラ・ラ・ランド』の違いは、あまりにも違いすぎるので、非常にわかりやすく言葉でも説明できる。

まず『ラ・ラ・ランド』の方は、映画の画面がその物語を裏切り続けている。「テクニカラー」の物語は、実際にはそれとまったく違う発色(とくに夜のシーン)によって画面から裏切られる。「ハリウッド黄金時代の郷愁」は、実際にはその時期の作品には絶対存在しないむごいまでの照明によって画面はそこからあたう限り遠ざかる。そしてシネマスコープという大型画面は、「ハリウッド黄金時代」の産物ではなくハリウッドが受けた深刻な打撃のための対策として退潮期である50年代中頃に導入されはじめた映画の「見世物化」を意味していることぐらい映画史の常識であろう。このようにして、画面から常に裏切り続けられる物語は、脚本の

「チャーリー・パーカーのニックネームはバード!」

などという台詞による説明や、巧妙な詐欺の手口のような冒頭のシーンに頼ることでしかみずからを成立させることができない。『ラ・ラ・ランド』は、過去のハリウッド映画などほとんどまともに見ていない時代の観客に偽の郷愁を煽りたてる。それはたとえば、トッド・ヘインズの『キャロル』のように50年代の映画にオマージュを捧げようとする人によって作られたものではなく、ただ都合のいいように利用しているだけである。


一方、『息の跡』の方は、映画の画面から直接、物語が生まれてくるようだ。小森はるかは、説明などしない。ただ佐藤さんの店先に風で立ち上る砂埃にキャメラを向けるだけである。それは短いショットにすぎない。にもかかわらず、観客は一瞬にしてそこが埃っぽい土地であることを知り、その埃が近くの工事によってもたらされていることを知る。やがて、その工事は、津波を防ぐための土地の嵩上げのためであることを知り、佐藤さんの種屋はいずれ失われることを知るのである。映画から愛された小森はるかは、佐藤さんがセロテープを「貼ること」という種屋にとっての何気ない日常的な身振りをいくつか連鎖させるだけで、それが津波にあった土地の修復の身振りと繋がっていることを伝え見るものの胸を衝つ。そしてあの井戸こそは、束の間であるがその土地に再び逞しく息づいていた生そのものではなかったか。


それにしても、なんという違いだろう。『ラ・ラ・ランド』には物語はあっても、それを納得させる画面はほとんどない。『息の跡』には、まるでそれだけで充分だと言わんばかりに画面と音しかない。そして物語はその画面を見守り、その音に耳を傾ける者の心に、まるでいま生まれたばかりのように途方もない感動として立ち上がってくるのである。