昨年11月に亡くなられたラウル・クタールのことがふと深夜に偲ばれ、彼が撮影した数々の傑作を憶いだした。ちなみにこのブログで、ラウル・クタールを検索しても出てくる記事はたった「二件」であった。彼が撮影したジャン・リュック・ゴダールの『ウイーク・エンド』の交通渋滞のシーンを恥ずかしげもなく風俗的に引用(というよりも利用)している『ラ・ラ・ランド』は、ラウル・クタールのことを思いださせる程度の価値はあったはずである。

クタールのことをまともに追悼さえしない民度の低さ、映画に対する記憶喪失が、ああいった映画の存在を許すのである。いったい、このブログには何件、あの醜悪な映画に関する記事があるのだろうか。『勝手にしやがれ』『気狂いピエロ』『突然炎のごとく』のみならず『ピアニストを撃て』『ローラ』『女は女である』のキャメラにも携わったクタールはデミアン・チャゼルなんかよりも遥かに映画にとって重要な存在であろう。

音楽のことはよくわからないが、あまりジャズを聞かない僕ですらわかる皮相なものであり、フランソワ・トリュフォーが夭折したジャン・ヴィゴを擁護するためにモーリス・ジョベールの音楽を自分の作品に使ったのとは別次元でメロドラマの音楽のように使用されるミシェル・ルグランもどきの音楽の使いかたなどは、今さらこんなことをしていいのかというレベルのものである。

ジム・ジャームッシュのようにニコラス・レイに深く傾倒していたり、マキノ雅弘の『鴛鴦歌合戦』が引用されたならばそれなりに評価もしようが、見ていて当然のジャック・ドゥミーの『シェルブールの雨傘』『ロシュフォールの恋人たち』の表面的引用では「題名や曲程度は知っている」ぐらいの人たちがああいった映画にくすぐらされてころりと騙されるぐらいのものである。タレントの「ローラ」の項目はあってもドゥミーの処女作である『ローラ』については Wikipedia に項目すらない信じられない粗雑さがああいった映画を評価させるのである。つまり「少ない情報によるイメージ」や「メッセージ」や「要約」レベルでしか対象を理解できていない人は、それを成り立たせている表現、肌理の違いにおいて雲泥の違いがあることがわからない。それはトランプが演説にリンカーンを引用して自説のダシに使うのに騙されるのに近いと思う。また、それは『ボヴァリー夫人』を姦通の物語としてしか読まないことにも通じるものである。

人が押し寄せるどのショットを撮ってもテレビ的な凡庸な絵にしかなっていない作品とどのショットを撮ってもいま映画が生まれてきているような絵になっている小森はるかの『息の跡』という作品との間に存在する途方もない出来の違いはなにに由来するものなのかは、もはや明らかである。