小森はるかさんが『通販生活』でのインタビューに答えているのを読んだ。質問自体は例によってうんざりする型にはまったものにすぎない。


ーーこの映画で伝えたかったことは?


でも答えは素晴らしい。


私自身が「何か伝えたい」というものはない気がします。佐藤さんのことを「こんな人がいますよ」と伝えたいわけでもないし、「陸前高田はこんなに大変です」と伝えたいわけでもない。ただ津波のあとの5年という時間に、佐藤さんがプレハブ小屋で「たね屋」を営んでいた。あの時間は「幻だった」というくらい、もう立ち現れることではない。そのときにあったことを時間が流れるのと同じように、簡単に失いたくなかったんです。いつか、かさ上げされた新しい土地の上に住む人たちがこれを見たときに、彼らのその時間と、佐藤さんがそこにいたこの時間の、何かがつながったらいい。陸前高田だけでなく、別の地域にも佐藤さんみたいな人がいっぱいいると思うんです。私はそういう人の言葉や生き方に励まされたりする。ほかの人にとっても、そうなったらいいなと思いますね。


公開中の作品なので具体的に書くのは差し控えるものの、あの空間把握、あの時間把握、そして映画がいま初めて創造されているのではないかと思わせる生々しく息づいているような画面ばかりでそれを見つめている自分が僥倖としか思えなかった『息の跡』の作者の発言もまた作品同様に映画的である。


彼女の発言を読んで、作品に登場する佐藤さんが普通に歩いたり、座ったりするところを撮っているところですら絵になっているのには本当に驚いた素晴らしい細部の把握がされている作品が誕生したのがすこし分かる気がした。というのも、映画を見ることも同じではないかと思うところがあったからである。つまり、DVDはおろかビデオさえ普及していなかった時代、なかなか見れない作品を映画館でみるというのは、それを逃してしまえば再び画面が立ち現れることは困難な一回限りに近い体験であって、その細部に立ち会ったことを記憶から簡単に消してしまいたくはないという真剣勝負のような気持ちが映画を見るということを鍛えたように思うからである。


いつでも止めて何回でも簡単に再生できるというのは確かに便利ではあるが、どこかしら感性をテレビ的な自堕落なものにしてしまう。一回限りのいまここにしかない現れを失いたくないという気持ちが細部まで注視することを養う。そして、映画の作品を批評したり語ったりするのならば、具体的な画面に即して語る、彼女の言葉で言えばそこに息づいているものを記録しておきたいと考えるのは当然の心の成り行きだと思う。


しかし、自分で見たはずの画面の集まりである映画の作品について書くのに、画面やそれに立ち会った時間について具体的に書く人がここまで存在せず、毎回読むに耐えないようなどうでもいい総論的な講釈をたれる人ばかりだというのは、それだけではないような気もするのである。