ちょっと忙しくて、清順師の映画も『けんかえれじい』を見直しただけで、もう一本見ようと思っていた『関東無宿』はまだ見直せていない。昼飯食べにいったら読売新聞に蓮實さんの追悼が出ていて、その記事だけは読んだ。1991年のロッテルダム映画祭の思い出が書かれていた。フランク・ボセイジの大傑作『幸運の星』が発見され修復された後に初めてそれがお披露目になった映画祭である。蓮實さんは訃報に接した後、『関東無宿』『刺青一代』『けんかえれじい』『春婦傳』『河内カルメン』を見られたほか、今回とくに感銘を受けたのは「悪太郎伝」二部作、すなわち『悪太郎』(1963), 『悪太郎伝・悪い星の下でも』(1965) であったと書かれていた。

蓮實さんついでに書くと、昨年末ぐらいに『監督 小津安二郎(増補決定版)』が「ちくま学芸文庫」として出たが、細部の誤りが修正されている。たとえば「憤ること」の章では、2003 年のときには、

そもそも、小津にあってのタオルや手ぬぐいは、むしろ男性にこそふさわしい小道具であったはずだ。実際戦前の作品では地方出身の学生たちが手ぬぐいを腰にさげていたし、戦後の『お茶漬けの味』でゴルフに興じる佐分利信までが、腰のあたりにそれをたらしていたものだ。

とあったが、明らかに間違っており、それが今回の文庫版では、

そもそも、小津にあってのタオルや手ぬぐいは、むしろ男性にこそふさわしい小道具であったはずだ。実際戦前の作品では地方出身の学生たちが手ぬぐいを腰にさげていたし、戦後の『お茶漬けの味』の老父役の柳永二郎は腰に白い手ぬぐいをさげて草むしりをしており、『彼岸花』のゴルフ場での佐分利信まで腰のあたりにそれをたらしていたものだ。

と正しく修正されている。これに関しては2015年10月に「佐分利信とタオル」と題してぼくは、次のような記事を書いた。(以下当時の記事から)

佐分利信がゴルフのとき、腰からタオルをぶらさげていた小津の映画はなんだったかを思い出そうとしたことがある。ある本に、それが『お茶漬けの味』と書いてあったのだが、そのシーンが思い出せなくて動揺したからである。

しかし、『お茶漬けの味』にそんな場面はないと結論した。『お茶漬けの味』の佐分利信は、本人の発言でいうと「プリミティブ」で「インティメット」な嗜好をもっている。そんな嗜好をもつ人がゴルフに興じることは考えられない。

それでは、類似作品の『淑女は何を忘れたか』だろうか。しかし、これには佐分利信でなくて斉藤達雄が出演している。それに小津には珍しく、映画の中で雨が降る。そのことで、斉藤達雄はゴルフに行ったふりをしていたことが妻の栗島すみ子に露見している。

『戸田家の兄妹』は戦前の映画で、当然除外できる。

一番可能性がありそうなのは『秋日和』である。というのも、店で佐分利信がゴルフボールを買うユーモラスなシーンは覚えているからである。しかし、『秋日和』を見直す機会があったが、ゴルフのシーンで佐分利信は手ぬぐいをぶらさげていない。

そうすると残りは『彼岸花』しかない。その作品のゴルフ場のシーンで、たしかに佐分利信は腰からタオルをぶらさげていた。そのシーンで佐分利信は、娘の有馬稲子の結婚問題でゴルフに身が入っておらず、北竜二、中村伸朗を入れた三人でその問題を相談している。どうやら、小津作品におけるゴルフ場は、男同士が集まって娘の結婚について相談を行う場所らしい。


(参照終わり)

また、今回の文庫版あとがきでは、

そう、「見ること」は、見た瞬間から「忘れること」にほかなりません。その便利な忘却は、初期のサイレント作品から後期の傑作にまで見られるもので、思わずはっとして、どうしてこの画面について語らなかったのかとしばしば考えこんでしまいました。とりわけ驚かされたのは、『お茶漬けの味』。この作品にこれほど多くの前進移動や後退移動のショットが含まれていたとは思ってもいませんでした。

とあるが、これに関しても2015年10月の記事で次のように書いたのを思い出した。


『お茶漬けの味』は、つくづく変な映画だと思う。まず、この映画では誰も驚く素振りをみせない。なるほど、映画の中で佐分利信は「鈍感さん」と呼ばれている。したがって、自分一人しかいないはずの真夜中の書斎に、津島恵子が突然立っているのを見ても驚いた表情をしないのは不思議ではないのかもしれない。しかし、海外赴任したその当日に飛行機のエンジンの不調から自宅にまた舞い戻ってきた佐分利信に対し、その家の家政婦は「旦那様がお帰りになりました」、妻は「お帰りなさい」と普段と変わらずに言うだけである。その応対に、夫である佐分利信も別段、不満げな様子は見せない。これは、さすがに少々常軌を逸しているのではと思う。さらに、家政婦や小暮實千代と同様、佐分利信が自宅に再び戻ってきたことに、この作品の観客も驚かない。佐分利信が自宅に戻ることは観客に前もって情報として与えられていないのにもかかわらず、驚くことはないのである。それは、それまでに移動撮影が入るとき、いつも最終的には佐分利信に関連づけられていたせいである。佐分利信が再び家に戻ってくる前にも、やはり移動撮影が入る。それを見て、観客はああ、佐分利信がここで登場するのだなと了解してしまうのだ。