前回の記事であげた『息の跡』の作家、小森はるかさんが『論集』に書いている文章を引用しておく。


東北での撮影は、作品にしようという思いではなくて、この土地で何を記録として残せるのかという葛藤だった。瀬尾とわたしはただ見聞きしたことを都市に持ち帰って言葉で報告するという活動を続けていた。周りからはその行為がアートや映画とは関係ないように思われていたし、一年も経たないうちに「震災とはこういうものなのだ」と一つの概念のように語る人が増え、報告という方法では届かなくなっていった。それはわたしたちが伝えようとする現実に対して知っていることがあまりにも浅かったことと、表現へと結実させなければ伝わらないということへの気づきだった。瀬尾はかなり早い段階から陸前高田に引っ越して絵を描きたいと口にしていたが、わたしはこの時期になってようやく決心することができた。

2012 年の春先、引っ越す家を探していた際「御礼」というタイトルの付いた一通のメールが届いた。作品について連ねられた言葉の最後に蓮實重彦と名前があった。日々、様々な映画が送られてくるのではないかと想像するが、すべてを観ていらっしゃるのか、たまたま手に取ってくださったのか、顔も名前も知らない者がつくったものを観てくれたことに驚いた。他の方にも手紙を書いてプレスを送っていたのだが、返事をくれたのは蓮實さんただ一人だった。ショットごとにここは非常によい、これはいかがなものかと感想を交えながら、はじめから終わりまでの時間を追想するような文章だった。撮影や編集を通して繰り返し目にしていたはずなのに、わたしには見えていなかった動きの隅々まで、すべて見届けられたことを言葉が語っていた。うまく言えないが、カメラに写されたものたちが、人の眼差しによって成仏していくような感覚だった。それは誰の目でもいいわけではなくて、写す・観るという間に最良の関係があるのだろう。決して自分が良い写し手だという意味ではなく、その関係がいかに結ばれるかによって作品そのものの息づき方が変わっていくのだと感じた。自分の作品を何と呼んだらよいのか分からなかったのだが、観る人の眼差しに導かれるようにして、作品が最後に行き着くべき場所へ辿り着くという、贅沢すぎる経験をさせてもらった。そして、蓮實さんはその場所を映画だと言ってくれた。

メールの最後には「私の期待など何ほどのものでもありませんが、やはり期待させていただきます。」と書かれていた。