なんかこのブログ、ときどき変なメッセージが入ってくる。さっきも「xxxx、くびれくっきり美ウェストを披露」とか入ってきた。
「それがどうした」
というのが素直な反応である。やせ我慢と受け取るのは、読む人の勝手であるが、「もう官能は間に合っています」というのが正直な気持ちである。最近、僕が好きな金井美恵子さんの文章を読んでいたらこんなところがあったがまったく同感である。この文章、『季刊 リュミエール』にあの素敵なジャン・ルノワール論を執筆されていた頃のものらしい。金井さんのルノワールについて書かれた文章は人を幸福にする、映画について書かれている文章の中でもっとも優れたもののひとつであるが、いまはそれについて触れるときではない。
たとえば、シャルルがベルトーの農場でエンマを見つめる条(くだ)り、露わな肩に汗の粒が吹き出し、白い首をのけぞらせてグラスの底に少しだけ注いだリキュールを舌の先きでペロペロ舐めるエンマの描写、ロドルフの寝室の窓辺で、エンマの顔や髪についた朝露と一緒に朝日を浴びて身体の輪郭がトパーズ色に燃えあがる、映画の撮影用語で言うならバックライトを浴びてクローズ・アップになり、輝く眼とわななく唇や小鼻に向かってカメラが近づいて行く、というようなシーンを読みかえすたびに何度も思い浮かべてしまう小説を読んだ後で、ルノワールの官能的な映画を見る。そうした、官能的経験のさめやらぬまま、ルノワール論を書いてしまう者にとっては、とてもポルノ小説を書いてしまう余裕など、ありはしない。
引用: 『ボヴァリー夫人』と私