ほんとうに取りとめのない記事です。

ちょっと前に、ジャン・ルノワール監督の『十字路の夜』の DVD を購入して、ひとりでずっと盛り上がっている。一生見れないのかとあきらめていた。

ジャン・ルノワール監督の映画を最初にスクリーンで見たのは、二十歳になるかならないかの頃で、京橋のフィルムセンターで見た『ゲームの規則』だったと思う。その後に見たのは『フレンチ・カンカン』『恋多き女』でこれもフィルムセンターだったはずである。日仏学院では『トニ』『黄金の馬車』を見た。大塚名画座では『ピクニック』をやってくれて、やっと会えましたという嬉しさと期待に違わない素晴らしさで短い上映時間のほとんどを泣いていたような気がする。『十字路の夜』の場合は、北朝鮮に拉致された子供が肉親と何十年ぶりかに再会するときのようであったと言っても過言ではなかった(嘘です)。

そんなことを思い出していると、『ピクニック』を見るほんのちょっと前に藤田敏八監督の作品で、秋吉久美子さんが出演されている『妹』『バージンブルース』『炎の肖像』を三本続けて見たこともついでに思い出したのである(『炎の肖像』は敏八さんだけでなく加藤彰監督もクレジットされている)。見たのはほぼ間違いなく文芸座のオールナイトだろう。なにを隠そう、いまだから明かす。当時、僕が夢に見るほど憧れていたのは秋吉久美子さんである。三本とも1974年の作品で、この年は五本も秋吉さんは映画に出演されている奇跡の年なのである。敏八さんと秋吉さんのコンビは本当によかった。何回見たかわからない。

ルノワールの映画も秋吉さんの映画も、何回も見た作品すらほんとうに細部を忘れてしまったものが多い。漠としたイメージだとか物語なんかはある程度時代を超えて記憶に残ったり、いろいろな人と簡単に共有されたりする。しかし、最近特に僕が思うのはそれでは駄目だってことである。細部を虐殺してイメージだとか物語だけをどんどん流通させるから世の中がどんどん悪くなっていくのである。ルノワールの映画も秋吉さんの映画ももう一度見直して、細部を現在に取り戻そう。現実とはイメージや物語ではなく、なによりも具体的な生き生きとした細部なのである。イメージや物語ばかり相手にしていて細部を無視していると、いつかお他人様の国の大統領のような人に投票したりする人間に成り下がってしまう。