日本が米国と戦争を始めた遠因のひとつとして、カリフォルニア州の日本人移民に対する排日問題があったといわれる。昭和天皇の回想録にもこうある。

「この原因を尋ねれば、遠く第一次世界大戦後の平和条約の内容に伏在している。日本の主張した人種平等案は列国の容認する処とならず、黄白の差別感は依然残存し加州(カリフォルニア)移民拒否の如きは日本国民を憤慨させるに十分なものである。又青島還付を強いられたこと亦然りである。かかる国民的憤慨を背景として一度、軍が立ち上がった時に、之を抑へることは容易な業ではない」

セオドア・ルーズベルトは、この問題に頭を痛めていたらしい。

「余は日本の問題(排日)では痛く悩んでいる。カリフォルニア、特にサンフランシスコの大馬鹿どもは向こう見ずに日本人を侮辱しているが、戦争となった暁には、その結果に対して責任を取るのは国民全体なのである」

1913年(大正2年)には、カリフォルニア州で、日本人移民による土地所有の禁止法が制定される。1913年4月16日付の「國民新聞」に 島田三郎は、 「加州(カリフォルニア州)の排日立法を論じて米国々民に告ぐ」という下のような記事を書いている(原文は句読点はないのだが、さすがにそれでは読みにくいので適当につけた)。僕は映画とともに昔の文章を読むのは結構好きな方である。文章だと、歴史的事実を淡々と抽象的に理解するのとはまったく違った具体的迫力を感じとることができる。新聞記事として、文章の格調はすばらしいと思う。戦争前の日本という国家は、そこに暮らしている人たちの民度がどう考えてもかなり高い。ここに書いてある「卑劣なる小政治家が労働者の投票を求めんが為めの一時的人気取り策」なんかは、いまや一国の最高責任者がやっているのだから驚くのだが、まあ政治家に徳目を求めたところでしょうがない。本当に重要なのは、こういったことを理念の問題で終わらせず、100年以上も同じような誤りを反復しているのだから、そろそろ政治、選挙制度がもう古くさいんではないかとか、従来のような政党政治がまともにこれからも機能するのかとかいった、「選挙の勝敗」とは別次元の議論をした方がいいんではないかと思う。


米国加州の排日問題は今回突如として顕(あら)われたるが如きも、其(その)由来する所決して一朝一夕に非ず。数年前彼のルーズヴェルト氏が、加州学童問題に対し大痛棒(つうぼう)を下したる以来、二年毎に開かるる州議会には常に形を変じ品を更えて顕われ出でたるものなり。従って一部の楽観論者は、これ単に慣習性の現象に過ぎず、或は卑劣なる小政治家が労働者の投票を求めんが為めの一時的人気取り策に過ぎずとなし、深く意に介する事無かりき。更に桑港(サンフランシスコ)大博覧会なるものが、日本人優待を一条件として、其競争地たるニューオーレアン(ニューオリンズ)、サンヂーゴ(サンディエゴ)に勝ち、桑港に許可されたるものなる事、殆ど公然の秘密となるや、楽観説は茲(ここ)に一層の楽観を加え、故国人士一般は素(もと)より、当局者たる桑港在勤の我(わが)領事館員までも、今後一両年間は少くとも天下泰平なり、と確信し居たるものの如し。而(し)かも此楽観たるや、利害問題を明かにするに当り、一切感情に支配さるる事なき現代米人の現金的国民性を無視したる一の幻想に過ぎざるなり。果せる哉、前の桑港総領事永井氏が大なる楽観説を齎(もたら)して帰朝せる数旬の後に、問題は急転直下、忽(ただ)ちにして危急険悪の状を呈するに至る。今回の排日法案たる三十余種の多きに上り、一様に論ずべからずと雖(いえど)も、要するに其結果は在加州六万の我同胞をして全く其希望を絶たしめ、其職業を失わしむる重大事件にして、最早一時逃れの姑息的楽観説は全然容るるの余地なし。由来、日米両国が相協力して東洋の平和を維持し、東西両洋の関係を円満に融和せんとするの希望は、過去殆ど六十年の久しき年と共に進んで、未だ一度も破られたる事あらず。然るに此多幸なる歴史が、米国の一小部に偶発せる事件の為めに傷けられんとするは、両国の識者、殊に我日本人の痛惜に堪えざる所たらずんばあらず。

先ず、土地問題に就いて概評せんに、日本人が加州の土地を開き、これに依って利益を得たるは勿論事実なり。然れども米人も亦、日本人の努力によりて、広漠たる加州の田園を開墾し得たる事を知らざるべからず。利益あればこそ、日本人は加州に在住し、亦利益あればこそ、米人も今日迄日本人の活動を許したるなれ。凡そ人の事業を為す必ず希望あって、これに伴うを要す。今日利にして、明日直に不利なりと知らば、唯れかこれに対(むか)って奮勉努力するものあらん。加州に於ける我同胞は、米国の法律の下に財産の安寧あるべきを信頼して今日に及び、其経営の久しき或は四十年或は三十年を越えたるもの少しとせず、これ文明国の法律が人の財産と勤労とを重じて、之を神聖視して不可侵の基礎の上に置くことの確信あればなり。然るに此希望を絶ち、人の勤労を無視する今回の排日法案は、所謂「為し得るが故に吾れはこれを為す」ものにして、人情道徳を全く度外せるものと云うべし。殊に「外国人の土地所有を禁ず」と云いて、外国人は平等なるが如く装えども、其実、帰化権なき東洋人、更に最も利害関係ある日本人を特に排斥するを目的とす。其国を開くに当ってのみ其力を借り、国開けて後、直にこれを追う、これ果して信用あり且(かつ)名誉を重んずる国民の為し得べき所なりや。よしむば立法部よくこれを為し得るの力あるとも、道理は断じてこれを許さず。今回の事たるや、第一に欧洲人以外の人民を排斥せんとするを意味し、第二に道理を顧みぬ立法部の処置を意味し、第三に名を実にして醜を行う虚偽の行為を意味す。吾人(ごじん)は素より之に依って、米人の総てを批難するに忍びざるも、彼等にして若し平然これを黙過するが如き事あらば、吾人は其良心の遅鈍なるを責めざる可らず。且や米国は大国なるが上に、地方分権を極端に重んずる国にして、今回加州の出来事が或は米人全部、殊にロッキー以東の地にある米人をして未だ充分に熟知せしむるの機会に達せざるやを懼(おそ)る。これ被害者たる加州六万の同胞と同感感情を有する吾人本国の日本人が特に大声疾呼して、彼等の反省を促さんとする所以なり。

今回の排日問題の根抵に横われるものは、東洋人を排斥し、これを歯せざらんとする一大迷想なり。素より人種の差、慣習の別はこれを現在の文明より拭い去る事能わず。而(し)かも斯くの如き迷想を立法の上に顕わすに至っては、断じて大国民の襟度(きんど)と云うべからず。更に一歩を進めて云えば「神の前に於て人は平等なり」という宗教的観念と十八世紀を隆盛なりし人権尊重の思想とは、実に米国建国の根本精神にして其人格化せるもの或はワシントンの如き或はリンカーンの如き、孰(いず)れも米人の誇とする所なり。彼等にして此光輝ある歴史を回顧せば、人種的偏見の如きこれを減じ、減じて遂に無に帰せしめんとする偉大なる理想を抱かざるべからず。然るに近来、米国が動(やや)もすれば此光栄ある歴史を暗黒の裏に葬り去らんとするは、真に慨嘆に堪えざる所と云うべし。一方更に日本が常に米国に感謝せる事は、政治外交関係意外に、彼れが偉大なる平等の思想を以て我日本国民を風化したるの一事なり。殊に其宗教運動は「神の前に於て人は平等なり」との高遠なる真理を教え、又現に教つつあり。我国に渡来せる幾多の宣教師の大多数は米人なり。東西思想の渾一(こんいつ)を目的として渡来せる講演者の大部分も亦米人なり。更に、国民相互の理解は世界平和の大一歩なり、と宣言して渡来せる所謂平和の使節も多くは米人なり。是等の思想と現在加州に起りつつある事件とを比較せば、其間、実に黒白の相違あるを発見せん故に、吾人は云わん、若し東洋人にして米国の国土に安んずるを許さざれば、米人も亦東洋に来って事業を営むべからず、平和を語るべからず、宗教を説くべからず、道徳を口にすべからずと。然れども東西の区別を立て、黄白の相違を明かにするは、これ科学交通が世界を渾一せんとする二十世紀の進歩せる文明が許す所に非ず。従って、今回加州の問題は単に土地の制限や職業の制限に関する問題に非ずして、其根抵は東西割拠を鼓吹する反文明的運動の端緒と見做すべきなり。吾人は素より一国の利害を悉く犠牲として迄、総ての政治を人道的たらしめよと単純に主張せず。而(しかれど)も「為し得るが故に如何なる背理をも為すは立法部の自由也」という卑むべき思想は、断じて吾人の許し得ざる所也。

吾人は斯く信ずるが故にこれを八千万の米人に告ぐ。今回の事実は決して米人の総てが与(あずか)り知れるに非ざるは勿論、又これを以て直に日米両国の交誼を傷くるものと見做すは大早計なり。要は米人の大部分が事実の真相を知らざるより起れり故に、茲に事実を表明し其不正を糾(ただ)し、以て両国の交誼を永久に深厚ならしめ、益々相協力して太平洋上の平和に尽瘁(じんすい)すべきは、蓋(けだ)し目下焦眉の急務と云って可なり。