昔、蓮實さんが、出席していたゼミで作品は素晴らしいけど、クリント・イーストウッドとは個人的には絶対付き合いたくはないみたいなことを言っていたのを最近妙に思い出さされてしまうのだが、これは、ジャン・リュック・ゴダールがジョン・ウェインについていった次の有名な発言と同じことである。

How can I hate John Wayne upholding [Barry] Goldwater and yet love him tenderly when abruptly he takes Natalie Wood into his arms in the last reel of The Searchers?


ぼくは、千葉雅也さんの本の題名のように「動きすぎてはいけない」と思っているが、だからといって抽象的な境界線を捏造したり、強化するすべての動きには反対する。ドゥルーズのようにフランスからほとんど出なかったから、かえって自由であったということはある。またそれとは逆にハリウッド映画が多くの亡命者によって作られたから、素晴らしかったということもあるし、そういった映画が好きだし記事も書いたつもりだ。

前の記事でも書いたが、時間をかけてなにかとじっくり具体的に向きあおうともせずに、混同や一般化・抽象化によって、性急に結論を出さないと気がすまない風潮とグローバルを結びつけた賤しさにたいしてはやりきれない。あたり前だが、「動きすぎてはいけない」は自己を保護し温存することとは、もっとも異なる。それは、小津映画が動かないことによって映画として最大に動くようなものだ。安易な二者択一思考を煽りたてる者には理解できないかもしれないが、それはそうなのだ。だいたい「分断」なんてのは本来ひとつのものが分かれることだろう。今起きていることは、本来ばらばらで多様だったものが二つに抽象化していることである。世界は、抽象的思考の持ち主が暗黙的に看做しているような「ひとつ」でも「ふたつ」でもないのだ。それ以上の数は思考できないらしい。