読書ノート。梶井基次郎の「檸檬」を京都的なイメージ、純文学のイメージから離れて読んでみる。
「私」以外に登場人物が出てこないこの作品の話者である「私」は、ある能力をもっていることになっている。その能力がなにかについては、物語の冒頭近くに書かれている。「私」が始終、京都の「街から街を浮浪し続け」ながら、「壊れかかった街」、とくにその「裏通り」を歩きながら、「そこが京都から何百里も離れた仙台とか長崎とか――そのような市(まち)へ今自分が来ているのだ――という錯覚を起こそうと努める」と語る箇所だ。
錯覚がようやく成功しはじめると私はそれからそれへ想像の絵具を塗りつけてゆく。なんのことはない、私の錯覚と壊れかかった街との二重写しである。そして私はその中に現実の私自身を見失うのを楽しんだ。
「錯覚」と「想像の絵具を塗りつけてゆく」は言い換えにすぎない――この作品の文体上の特徴は、倒置の使用とともに数多くの列挙や言い換えにあるといってよい。「私」はその能力によって、京都をいわゆる「京都的なイメージ」から切断し、何百里も離れた市(まち)へ接続しようと試みる。ここで、「錯覚」「想像の絵具を塗りつけてゆく」ことのさらなるい言い換えとして使われている「二重写し」は「オーバラップ」のことであり映画用語である。「私」には、「静物画」――おそらくセザンヌの静物画を意識した――と「動く絵」としての映画の奇妙な混交がある。つまり、「私」は、完成した絵画としての「静物画」よりも、「塗りつけてゆく」という表現に見られるような、その制作過程における「動的な」側面により惹きつけられている。あるいは、完成した「静物画」は「私」を「居堪らず」させるのものだといってよいかもしれない。
「二条」「寺町」「京極」という固有名詞が出てくるにもかかわらず、「檸檬」という作品を「京都的なイメージ」と結びつけて読むのはやめにしよう。たとえ「丸善」や「八百卯」をモデルとしているといわれる「八百屋」とも「果物屋」とも曖昧に呼ばれている店舗や、その近所にある「鎰屋」が出てきたとしても、そうしてはならないのである。「私」にとって、「京都」は平面的で、上(あ)がったり、下(さ)がったりして歩き回り、定住することさえ拒むどこでもない場所である。
それで始終私は街から街を浮浪し続けていた。
その頃私は甲の友達から乙の友達へというふうに友達の下宿を転々として暮らしていたのだが
私は長い間街を歩いていた。始終私の心を圧えつけていた不吉な塊がそれ(檸檬)を握った瞬間からいくらか弛んで来たと見えて、私は街の上で非常に幸福であった。
変にくすぐったい気持ちが街の上の私を微笑ませた。
「街の上」という英語を直訳したような表現から、「平面的」に京都という場所が捉えていることがわかる。方向としては、「上」と「下」という感覚がかろうじて「京都的」といえば「京都的」かもしれない。
とうとう私は二条の方へ寺町を下(さ)がり
そして私は活動写真の看板画が期待な趣きで街を彩っている京極を下って行った。
最後の文は「寺町を下がり」を「さがり」と読むのだから「京極をくだっていった」ではなく、「京極をさがっていった」と読むのだろう。しかし、京都に固有と思われるその方向表現さえ、檸檬を「私」が携えているときには失われてしまっている。
どこをどう歩いたのだろう、私が最後に立ったのは丸善の前だった。
その方向感覚の失調にもかかわらず「丸善」の店の内と外は明確に区別されているのは、次の二つの文から明確である。
「今日は一つ入ってみてやろう」そして私はずかずか入って行った。
「出て行こうかなあ。そうだ出て行こう」そしてすたすた出て行った。
「ずかずか」と「すたすた」という擬態語には、檸檬を携えているかいないかの差異が反映しているようにも思えるが、重要なのは、「私」にとって「丸善」の内と外が明確に区別されており、店の中に入るときも、店から出るときも、その行動は「私」には明確に意識化されていることだ。こうした「内」と「外」の区別は檸檬を購入した「果物屋」または「八百屋」でもそうであることに注意する必要がある。こちらは、内と外は「暗さ」によって区別されている。
またそこの家の美しいのは夜だった。寺町通はいったいに賑(にぎや)かな通りで――と言って感じは東京や大阪よりはずっと澄んでいるが――飾窓の光がおびただしく街路へ流れ出ている。それがどうしたわけかその店頭の周囲だけ が妙に暗いのだ。もともと片方は暗い二条通に接している街角になっているので、暗いのは当然であったが、その隣家が寺町通にある家にもかかわらず暗かった のが瞭然(はっきり)しない。しかしその家が暗くなかったら、あんなにも私を誘惑するには至らなかったと思う。もう一つはその家の打ち出した廂(ひさし)なのだが、その廂が眼深(まぶか)に冠った帽子の廂のように――これは形容というよりも、「おや、あそこの店は帽子の廂をやけに下げているぞ」と思わせるほどなので、廂の上はこれも真暗なのだ。そう周囲が真暗なため、店頭に点(つ)けられた幾つもの電燈が驟雨(しゅうう)のように浴びせかける絢爛(けんらん)は、周囲の何者にも奪われることなく、ほしいままにも美しい眺めが照らし出されているのだ。裸の電燈が細長い螺旋棒(らせんぼう)をきりきり眼の中へ刺し込んでくる往来に立って、また近所にある鎰屋(かぎや)の二階の硝子(ガラス)窓をすかして眺めたこの果物店の眺めほど、その時どきの私を興がらせたものは寺町の中でも稀(まれ)だった。
ここで、「私」が檸檬を一つ求めることになる店の「内」と「外」を通底しているのが、「店頭に点けられた幾つもの電灯が驟雨のように浴びせられる絢爛」として表現されている「裸の電燈」から発する光線(細長い螺旋棒)であることに注意したい。「黄金色に輝く恐ろしい爆弾」と表現され、爆発することで、丸善を粉葉みじんにすると想像された檸檬が、丸善の「内」と「外」を通底させるものとして機能しているように、「裸の電燈」は「八百屋」または「果物屋」の内と外を通底させるものとして、「檸檬」と同一の主題系をなしていることに敏感であればよいのだ。
なお、その電燈の下に、果物や青物が並んでいる場面は、「丸善」の画本の棚の場面で様々な画集が並置されている部分や、次の記述と主題的な類似が認められる。
赤や黄のオードコロンやオードキニン。洒落(しゃれ)た切子細工や典雅なロココ趣味の浮模様を持った琥珀色や翡翠色(ひすいいろ)の香水壜(こうすいびん)。煙管(きせる)、小刀、石鹸(せっけん)、煙草(たばこ)。私はそんなものを見るのに小一時間も費すことがあった。そして結局一等いい鉛筆を一本買うくらいの贅沢をするのだった
また、「結局一等いい鉛筆を一本買うくらいの贅沢をする」という「丸善」の買い物部分は、「結局私はそれ(檸檬)を一つだけ買うことにした」という買い物の記述(作品の中間点に位置している)とも対応していることに注意したい。
ところで、映画について語られているのは、「二重写し」の他にこの作品では一つしかなく、それはいうまでもなくこの作品の最後の部分だ。
そして私は活動写真の看板画が奇体な趣きで街を彩っている京極を下って行った。
そして、ここで「活動写真の看板画」が語られているのは、その前にある次の有名な表現を受けてのものである。
丸善の棚へ黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛けて来た奇怪な悪漢が私で、もう十分後にはあの丸善が美術の棚を中心として大爆発をするのだったらどんなに面白いだろう。
私はこの想像を熱心に追求した。「そうしたらあの気詰まりな丸善も粉葉みじんだろう」
そして私は活動写真の看板画が奇体な趣きで街を彩っている京極を下って行った
つまり、「私」の映画的な「奇体な想像の絵具を塗りつけること」により、「活動写真の看板画」が現実として「私」の意識にのぼってくるのである。
「私」が「丸善」の外に出る前の名高い場面を詳細に見てみよう。
私にまた先ほどの軽やかな昂奮が帰って来た。私は手当たり次第に積みあげ、また慌(あわただ)しく潰し、また慌しく築きあげた。新しく引き抜いてつけ加えたり、取り去ったりした。奇怪な幻想的な城が、そのたびに赤くなったり青くなったりした。やっとそれはでき上がった。そして軽く跳りあがる心を制しながら、その城壁の頂きに恐る恐る檸檬(れもん)を据えつけた。そしてそれは上出来だった。
画本を「手当たり次第に積み上げ、また慌ただしく潰し、また慌ただしく築きあげた」りする行為は、静物画の制作行為の動的側面を語っているとも思われ、その遊戯にも似た無償性は、色彩面の記述が類似している子供の玩具としての「花火」の記述や、「びいどろ」の部分の記述と同等の「積木遊び」に似た「幼時のあまい記憶」を呼び起こすものである。
私はまたあの花火というやつが好きになった。花火そのものは第二段として、あの安っぽい絵具で赤や紫や黄や青や、さまざまの縞模様(しまもよう)を持った花火の束、中山寺の星下り、花合戦、枯れすすき。それから鼠花火(ねずみはなび)というのは一つずつ輪になっていて箱に詰めてある。そんなものが変に私の心を唆(そそ)った。
それからまた、びいどろという色硝子(ガラス)で鯛や花を打ち出してあるおはじきが好きになったし、南京玉(なんきんだま)が好きになった。またそれを嘗(な)めてみるのが私にとってなんともいえない享楽だったのだ。あのびいどろの味ほど幽(かす)かな涼しい味があるものか。私は幼い時よくそれを口に入れては父母に叱られたものだが、その幼時のあまい記憶が大きくなって落ち魄(ぶ)れた私に蘇(よみが)えってくる故(せい)だろうか、まったくあの味には幽(かす)かな爽(さわ)やかななんとなく詩美と言ったような味覚が漂って来る。
そして、その「積み木遊び」が完成したとき、第二のアイデアが起きる。最初に述べたように「私」には完成した「静物画」の全体は用はなく、むしろ「私」の憂鬱を募らせる「不吉な塊」にすぎない。
やっとそれはでき上がった。そして軽く跳りあがる心を制しながら、その城壁の頂きに恐る恐る檸檬(れもん)を据えつけた。そしてそれは上出来だった。
見わたすと、その檸檬の色彩はガチャガチャした色の階調をひっそりと紡錘形の身体の中へ吸収してしまって、カーンと冴えかえっていた。私は埃(ほこり)っぽい丸善の中の空気が、その檸檬の周囲だけ変に緊張しているような気がした。私はしばらくそれを眺めていた。
不意に第二のアイディアが起こった。その奇妙なたくらみはむしろ私をぎょっとさせた。
――それをそのままにしておいて私は、なに喰(く)わぬ顔をして外へ出る。――
私は変にくすぐったい気持がした。「出て行こうかなあ。そうだ出て行こう」そして私はすたすた出て行った。
そして、「私」は檸檬を爆弾と見立てて「不吉な塊」を爆発させる想像を楽しむのである。