振り子の時計が静かに揺れるたびに、彼は心の中で仏名「阿弥陀仏」を唱えていました。
何年も前、彼はいくつかの店を回って、ついにこの振り子付きのアンティーク時計を購入しました。彼はそれを仏堂内に置き、しばしばその前に座り、振り子のリズムに合わせて阿弥陀仏の名を唱え続けました。
彼はよく友人たちにこう言いました。「よく聞いてください。1秒1秒これが時間の流れです。」
1944年、ある若者が雨の中、ぬかるんだ道をお寺へと歩いていました。19歳か18歳になったばかりの彼は、仏教に憧れていました。同世代の人が生活に苦労する中、彼は仏教に帰依し、人生の意味を見つける旅に出ました。
徳樹さんは農業が盛んな時代に貧しい家庭に生まれました。幼い頃から畑仕事をし、天候に頼って生計を立てていました。人生の苦難を知り、他人の苦しみも理解できます。たとえ自分自身がお金に困った時でも、困っている人を見かければ、躊躇することなくポケットからお金を取り出し、施しをしました。できる限り人を助けたいと彼は言いました。長年にわたり、彼は多くのお寺を訪れ、心から仏教を信仰していましたが、まだ自分の真の居場所を見つけていないと感じていました。
老後、彼は浄空法師さんに出会い、仏典の解説を聞きました。目に涙が溢れ、「ついに来たのだ。長年待ち望んでいたが、ついに落ち着く居場所を見つかりました」と語りました。
1994年、浄空法師さんの教えを広めるため、自宅近くに浄土宗の修行場を設立しました。その日から、彼はグループ修行のための無料の場所を提供しただけでなく、自ら大衆を導いて一緒に念仏します。会員一人ひとりを大切にしました。皆から敬意を込めて徐会長と呼ばれていました。法師さんが、衆生を利益するために仏典を広く印刷することを提案した時、彼はためらうことなくその教えに従い、仏典を大量に印刷して配布しました。CDバーナーを購入し、ボランティアを動員して昼夜を問わずCDのコピーを行いました。これは、より多くの人々に仏陀様の教えを知ってもらいたいためでした。
徐会長は長年にわたり仏教を学ぶことで、人生の最後に業(カルマ)以外は何も残らないことを深く理解していました。彼の最も独特な習慣は、毎年大晦日に子供や孫を集め、「人生は無常です。皆さんは真剣に仏陀様の教えを学びなさい。私が亡くなった後、遺骨は残したくない。海に撒いて、衆生を供養してください」と真剣に伝えることでした。
2001年の夏、徐会長の健康状態は悪化し、体力は著しく低下しました。家族に付き添われて病院に受診を受けたところ、脳の4分の1を占める脳腫瘍が見つかりました。徐会長は驚きのあまり言葉を失いました。これほど大きな腫瘍は、日常生活に何ら支障をきたしていませんでした。このような症例に出会ったのは初めてだと病院の先生が言いました。
翌朝5時、老会長は目を閉じて、静かに亡くなりました。その時、孫の夢に現れ、微笑みながら「おじいちゃんは家に帰ってお経を唱えたい」と言いました。亡くなった後に家族は遺骨を海に撒きました。その夜、息子さんが夢の中で父から「私は極楽浄土に着きました。昨日、海に撒いた場所には、まだ苦しむ霊が多くいます。浜辺に冥銭を燃やして彼らに供えなさい」と告げられた。
翌朝、家族は浜辺へ行き、手を合わせながら真摯に目的を説明しました。火をつけた瞬間、突風が吹き荒れ、炎は竜巻へと変わり、空へと渦を巻きました。まるで通じ合ったかのようでした。信じられない奇跡が、彼らの目の前で現れました。
『無量寿経』には、「世間の人々は、この世で苦しみながらも、生計を立てるために仮面を被る。 ー物質的な欲求を満たすためだけに精進していると説かれています。名誉や金銭、欲望といったものに精力を浪費し、より確実な修行と悟りという事柄をなおざりにしています。
徐会長はそれをはっきりと見抜いておられました。彼は欲望を減らし、この世の全てにも執着しませんでした。真の幸福は外からのではなく、心の中で阿弥陀仏の名を絶えず唱えることを、自らの人生で証明されました。彼は亡くなりましたが、明確な道を残してくださいました。
彼のように、専念に仏の名を唱えましょう。すべての衆生が阿弥陀仏の浄土に生まれるよう願っております。
