Hiroyuki Tomita to give Final Performances [page 2 ]
(冨田洋之、最後の演技披露)
(続き)
2006年になると、かつて(2003年から2004年にかけて)のライバルの一人、中国の楊威が
再び世界の舞台に戻ってきた。新たに改定された採点方式の下、世界選手権を圧倒的強さで
制したのは楊威その人であった。彼は一年前に冨田が優勝したときとほぼ同じ点差を以て
冨田を下したのである。
中国が団体総合でも優勝を決める一方、日本は第3位であった。 (→JGA
)
これらの世界選手権大会において世界タイトルをひとつずつわけ合っての
1、2位争いが繰り広げられたあと迎えた2007年の世界選手権では、
冨田‐楊威間の白熱した争いが予想された。
ドラマは冨田が6種目中3種目のミスにより残念ながら12位に終わり、一方の楊威は
自らのトロフィー入れに2つ目の個人総合の世界タイトルを加えるという結果で幕を閉じる。
団体に関しては、日本は前年の銅メダルから一つ上の銀メダル獲得を果たした。
いまやとどまることを知らない勢いに乗る中国に次ぐ2位であった。 (→JGA )
2008年のオリンピックが近づく頃には、中国は確実に団体戦の圧倒的優勝候補であり、
一方の日本は銀メダルの最有力候補と言えた。
ポール・ハムの復帰により、一時は個人総合をめぐる争いに新たに刺激的な局面をもたらすかと
伝えられたが、大会開催をほんの2週間後に控えてのハムの撤退により、
冨田は楊威への最も有力な挑戦者として残された。
決勝進出団体が出揃ったとき、全ては予想通りの結果であった。たった一つ大きな例外を除いて
・・・冨田が個人総合決勝への資格を得ることができなかったのである。
予選の跳馬での着地ミスで、冨田は全体の6位となる。それは、2人のチームメイト
(新たな旋風内村航平4位と、坂本功貴5位)にそれぞれ.15、.05差で下回る成績であった。
残酷な運命のねじれによって冨田のオリンピック個人総合金メダルへの挑戦は潰えたかと
思われた。
しかしそうではなかったようだ。
1992年の悪評高いTatiana GutsuとRoza Galievaの件を彷彿させる変更によって、
1984年のオリンピック個人総合チャンピオンである具志堅幸司監督は
坂本の代わりに冨田を出場させることに決めた。
(私の印象では、この交代劇は当時アメリカでは-他国はわかりませんが-批判的に受け取られていたように
思いました。ネット上のコメントなどで割と議論されてました。)
生涯かけてのチャンスが、慈悲深くもこの経験豊かなスーパースターのもとに
再び巡ってきたのである。
こうして楊威にとって最も手ごわい競争相手が再び勝負の場に戻ってきた。
個人総合の決勝で冨田は最初の2種目であるゆかとあん馬で好スタートを切った。
迎えた3つ目のローテーション、
全男子競技中で最もショッキングな出来事の一つが起こってしまう。
それは、冨田の2008年オリンピックでの経験として、
不幸にもほとんどのファンの脳裏に焼き付いてしまったことである。
(2008オリンピックつり輪で落下する冨田選手の動画―ここには貼りません)
突然彼の手が滑り落ちた時、冨田の金へのチャンスも滑り落ちて行った
・・・そして、彼が小さな子供のころから抱き続けていたであろうオリンピックの夢も、
彼自身とと共に崩れ落ちた。
この考えがたい大惨事と、それに続く13.85という心をうち砕くに十分な点数によって、
冨田の挽回は精神的にも肉体的にも不可能であると思われた。
しかし、冨田はあきらめることはなかった。
チャンピオンらしく、何とかメダル争いへと戻るべく奮闘を続けたのである。
これは彼の個人総合決勝における最後の2種目―平行棒と鉄棒―である。
何と言うチャンピオンであろう。
この体操選手にこそ、オリンピックの個人総合の表彰台に立つ姿が
似つかわしいものだったことだろう。それでも、あの犠牲の大きい偶発的なエラーを
乗り越えてなお個人総合4位という位置につけたことは、
誠に特筆すべき巻き返しであり、彼の性格や不屈の精神を真に証明することである。
今週末のワールドカップ決勝において1つないし2つのメダルを獲得することは、
この体操選手の戦歴に十分相応しいフィナーレであるといえるだろう。
しかし、彼が既に体操競技において成し遂げてきたことは何があろうとも変わることはない。
オリンピックでの団体金、世界個人総合金、もう一つのオリンピックでの団体銀、
もう一つの世界個人総合銀、銅・・・オリンピックと世界選手権での平行棒銀、
それに過去6年間以上に渡って出場した数多くの大きな大会における決勝での演技。
おそらくもっと重要なことは、彼が自国を男子体操界において世界的に強力なチームへと
復活させたことであろう。2004年のオリンピックにおける日本の金メダル獲得は
1976年以来のことであったし、冨田が2005年に獲得した個人総合の世界タイトルは
日本人体操選手としては30年以上ぶりの快挙であった。
今週末最後の着地に降り立つとき、冨田は退く。その後ろには内村航平のような体操選手を
通じて受け継がれ続けているものがある。内村は今まさに旅へと出航しようとしている。
それは彼の年長のチームメイトがちょうど戻ってきたばかりの旅とよく似た旅である。
この若者にトーチを手渡す準備を整えながら冨田は、きっと自分自身が
(塚原直也や、具志堅幸司監督のような)前任者から受け取った教え(words of wisdom)を
振り返り、思い出すことであろう。そしておそらく人生について、
「終着点」というより、その過程である「旅」のようなものとして語ることであろう。
そしてまた、この競技がどんなに大変であろうと、決して絶対にあきらめてはいけないのだと。
冨田には後継者へと伝えるのもとして、単に体操というにはとどまらないものが確かにある。
本物のチャンピオン精神(the heart of a true champion)が引き継がれていくのである。