今日も特に書く事も無いので

以前のツーリングの事を🏍DASH!

流れ星

それはまだ

ウチにTW200とジェベル200

があった頃…時計

 

皆さんは、

『水戸黄門』の「風車の弥七」が

実在の人物だという事を知っていま

したか?

と、云うよりも

モデルになっている実在の人物が

いたのです…

そのお墓が、

茨城県常陸大宮市(旧緒川村)

に現存します。

 

↓道の駅かつら

 

 

🏍DASH!

 

 

以下 参考資料

 

水戸黄門ゆかりの里
風車の弥七の墓
水戸藩指定紙すき場跡

風車の弥七の墓

「水戸黄門の諸国漫遊」は、義公が名君であったために作られた物語であるが、その中に出てくる「風車の弥七」は、実在の人物「松之草村小八兵衛」がモデルとなっている。
義公の御世、(1661-1690年)常陸国松之草村(現茨城県常陸大宮市松之草)に、「松之草村小八兵衛」という者がおった。この者は盗賊の頭領で、一昼夜に三十里(120km)を往来し、忍びの術に於いても達人の優れた忍者であったという。後捕らえられたが、義公の尊徳をもって助命となったばかりか、一生涯二人月俸を給せられたので、その恩恵に非常に感激して、「自分の存命中は、決して御領内に盗賊は立ち入らせない」と誓ったと言うが、果たしてその言のとおり、彼の存在中は、水戸領内には夜盗の心配はなかった。
又、小八兵衛は、領内や隣国の動静変事を探り、義公に報告する間者(隠密)として活躍したので、義公は居ながらにして、領内の変事はもとより、隣国の動静も知り得たという。このことは、今から約一五〇年前に「石川久徴先生(注1)」著書の「桃蹊雑話」に書かれている。
小八兵衛の墓が、松之草公民館の近くの山の麓にある。-帰真禅山崇心墓・元禄十一年戌寅五月二日歿-と書かれている。その傍らから、小八兵衛の女房の「お新」の墓碑ではないかと思われるものが発掘された。-皈眞梅梢池春禅定尼霊位-元禄四年正月十一日歿-と書かれている。
「お新」は旧那珂郡戸田村(現那珂町)から来たと言い伝えられている。
この墓は、故会沢淳氏(元緒川中学校長・元緒川村郷土文化研究会理事)の曾祖父会沢松翁先生(注2)や郷土史家圷清次氏(故人)の調査研究によって確認された。
近年、緒川村は村内の史跡顕彰に力を注ぎ、地元松之草の協力を得て、墓地の整備を行い世に公にされた。

(注1)石川久徴先生は、藤田東湖先生・会沢泊民先生の師で、その著書「桃蹊雑話」は、水戸初代の藩主威公から、六代文公までの水戸藩のできごとが書かれている。

(注2)会沢松翁先生は、会沢正志斉先生の縁者で、傑出した門下生でもある。皇漢学者。大正十三年、八十一歳で歿す。

傍らにはお新の墓も建てられています。

 

 

 

 

 

流れ星

 

 

風車の弥七の墓

茨城県常陸大宮市松之草16-2