父さんはアパートに滞在していた短い時間の間に、クズヒコが契約している様々なものをチェックしていたらしく、翌日、仕事の合間にいろいろなところに電話をかけ、クズヒコが契約していた地元の商工会の会報などを「本人が入院したので」と理由を説明して一時停止にしていた。

 また、クズヒコは年金の他に新聞配達と牛乳配達をして生計を立てていたらしく、こちらはそれぞれ前日のうちに電話をかけて事情を話し、しばらく出勤できない旨を伝えていた。

 

 私が手際の良さに感心して、「社会人になったらこういったことができるようになるのかな」と言うと、「ほかの人はどうか知らないけれど、大学時代にこんなことばっかりやってたからできるだけだよ」と父さんは答えた。

 

 「何か手伝えることがあったら言って」と私が言うと、父さんは「ありがとう」と答え、医師からクズヒコの病状の説明を聞くために病院に出かけていった。

 

 私が母さんではなく、父さんと暮らすことを選んだのは離婚の原因が母さんの駆け落ちだったということだけではない。

 

 私が高校に入ったばかりのころ、ちょっとした人間関係のトラブルがあって学校に行けなくなった時期があった。今思い返せばたいしたことではなかったのだけれど、当時の私は世界が終わってしまうくらい絶望的な気分だった。

 

 母さんは何とか私がまた学校に行けるようにと、カウンセラーに相談したり、担任を始めとした学校の先生たちと話をしたりしていた。そして不登校関連の本を読んではいろいろな話をしてきた。もちろん私のことを考えてくれているというのはわかってはいたのだけれど、出席日数を気にしているということが感じられて、自分でもそれが問題になるということが分かっているだけにつらかった。

 

 何よりも話しかけられるということ自体が負担に感じていた。

 

 ある日、部屋に閉じこもっている私にご飯を持ってきてくれた父さんが、ドアの外から「無理に学校に行かなくても、落ち着くまでゆっくり休んでおいて。ただエミリが生きていてくれさえすればいい。父さんは何の役にも立ててないけど、エミリや母さんのためだったら命だって惜しくないって思っているから」と言って、静かに廊下に食事を載せたお盆を置き、「親子丼だから、お米が汁を吸わないうちに食べて」と付け加えて階段を下りていった。

 

 それからずいぶん経って、私が元気になってから、母さんはその時のことを「大げさなことを言う人よね」と笑っていたけれど、私はあの晩、父さんがドアの前からいなくなった後、ベッドにもぐりこんでこれまで生きてきたなかでいちばん泣いた。