その日、父さんは一人で朝から事務所に出かけて3時過ぎに帰ってきた後、日課になっているジョギングをしていた。私がソファに横になって正月番組をぼんやりと見ていると、リビングの固定電話が鳴った。ディスプレイには見たことのない番号が表示されていた。私は口の中に残っていた煎餅を急いで飲み込み、少しよそ行きの声で「もしもしフルタです」と名乗った。
「お休みのところ申し訳ありません。トリネ総合病院のフルノと申します。ご主人様は御在宅でしょうか?」という声が受話器の向こうから聞こえてきた。
私が「父はちょっと外出しています」と答えると、相手は「失礼しました」と儀礼的な謝罪をした後、キヨタカズヒコなる人物が入院することになったこと、緊急連絡先がこの番号になっていること、入院の手続が必要なので来院してほしいことを告げた。
私は相手の告げた内容をメモを見ながら復唱し、お礼を言って電話を切った。キヨタカズヒコという名前に聞き覚えはあったけれど、それが誰なのか思い出すことができなかった。
私は病院との電話を切るとすぐ、ジョギング中の父さんに電話をかけた。「キヨタカズヒコ」という名前を聞くとすぐに、父さんはしばらく黙り、「クズヒコ」とぼそっとつぶやいた。
私は父さんのその声を聞いて、どこでその名前を耳にしたのかを思い出した。
クズヒコことキヨタカズヒコは父さんの元父親に当たる人物だ。「元父親」という表現を聞いても首をかしげる人がほとんどだと思うけれど、父さんの母親、つまりわたしのおばあちゃんの2度目の結婚相手だ。父さんはおばあちゃんの最初の結婚相手の子供なので、おばあちゃんがクズヒコと離婚した後は、元父親という関係になる。私にとって「元祖父」という関係になるのかまではわからない。
おばあちゃんから聞いた話によれば、このクズヒコは知り合いの保証人になって借金を背負うことになったことに始まり、トラブルのデパートのような存在だった。当時高校生だった父さんは志望していた首都圏の大学に進学することができず、地元の私大に進学し、アルバイトを掛け持ちして家計を助けた。
その当時、クズヒコは自分の両親や兄弟姉妹から多額のお金を借りていた。自分が保証人になったことが原因にも関わらず、「自分の血のつながっていない息子(つまり父さん)の大学進学でお金がかかったから、上手くいっていた借金の返済プランが崩れた」などと平気で嘘をつき、父さんは親戚中から責められることになった。
そんな状況にあっても、父さんは大学生にもかかわらず、クズヒコが立て続けに引き起こすお金がらみのトラブルに一生懸命に対処していった。クズヒコが当時勤めていた会社のお金が無くなり、頭を下げて謝りに行ったことまであるらしい。
何年か前、父さんと一緒に近くのATMにお金を降ろしに行った時、偶然クズヒコに会ったことがある。朗らかな感じで話しかけてきたクズヒコは一見すると人当たりのよさそうな老人という印象だった。そんなクズヒコに、父さんは優しく対応し、体調などを尋ねていたけれど、その目は全く笑っていなかった。
私は「送っていこうか?」とジョギングから帰ってきて着替えをしている父さんに声をかけた。父さんは少し驚いたような顔をして少し考え、「助かる。ありがとう」と言った。
病院まで5分ほどの道中、父さんは珍しく黙ったまま窓の外を見ながら何かをずっと考えていた。