「映画館てなんでポップコーンを売ってるのかな?」

 仕事帰りの電車でドアのそばの手すりにつかまって立っている僕のそばにいた女子高生たちが話している。

 「普段はポップコーンなんて食べないのにね」

 「ポテトチップスとかだったら食べるときに音が出るからじゃない?静かにしないと怒られるじゃん」

 「ゆっきー、賢いね」

 そこまで話したところで電車はゆっくりと停車し、ゆっきーと呼ばれた少女が手を振りながら降りていった。

 ゆっきー、映画館のポップコーンには他にも理由があるんだ。昔は映画の内容が気に入らないとお客さんがスクリーンにものを投げていたんだ。柔らかいポップコーンだったらスクリーンが傷つかないからなんだよ。スーが教えてくれたんだ。

 スーがポップコーンについての豆知識を教えてくれたのは、思い切ってスーを近くのスーパーの中にあるマルチプレックスの映画館に連れて行った帰り道のことだった。

 コンサートは街中まで公共交通機関を使って出なければならないけれど、映画館のあるスーパーなら、歩いて30分弱で行くことができるし、暗くなってからであれば誰かに見られる危険も少なくできそうだった。

 僕はスーが好きな俳優の一人であるアル・パチーノが主演している映画の夜7時以降の上映回をチェックした。レイトショーもあったけれど、夜中に出歩いていて、万が一警察官に職務質問でもされたら厄介なのでそちらはパスをした。僕はスーがこの計画を知ったらどんな顔をするかとても楽しみだった。

 その日、僕はスーに理由は告げず、万が一の場合に備えて用意しておいた外出着のジーンズとトレーナー、ダウンジャケットを着るように話した。一緒に外出するということをすぐに理解したスーは喜びで興奮しているのか、不安と緊張で怯えているのかよくわからない表情をしながら着替えをもってユニットバスへと入っていった。

 僕は着替え終わった彼女に髪の毛がほとんど隠れるようにニットの帽子を被せ、それから大きめのマスクをつけさせた。スーは目元以外はほとんど隠れた状態になった。

 「これから私たちは映画館に行こうと思います」と僕が言うと、目元以外はほとんど隠れているにもかかわらず、彼女の表情がぱっと明るくなったのが分かった。しかしすぐに外出することに対する不安からか、表情は硬くなった。

 「大きなスーパーマーケットの3階に映画館があります」と僕は説明した。「ここから30分ほど歩かなければなりません。幸運なことに6時にはもう暗くなっています。誰かがあなたを見つけることはバスに乗って映画館に行くよりも少ないと思います」

 スーはうんうんと頷きながら僕の話を聞いていた。僕はもう一度新聞を見て映画の時刻を調べ、余裕をもって40分前に家を出た。

 12月になると陽が落ちるのは早い。僕たちは街灯の多いメインの通りではなく、裏にある土手沿いの道を歩いた。寒い日だったけれど何人かのジョガーとすれ違った。そのたびにスーはびくっと身体をこわばらせていたけれど、誰一人として僕たちに注意を払う者はいなかった。

 僕たちはスーパーに着くとエスカレーターやエレベーターではなく、人の少ない階段で3階まで上がった。映画館のフロアが見えると、スーは立ち止まって僕のほうを見た。興奮しているのが彼女の全身から伝わってきた。

 彼女は少し早足になり、映画館のフロアに入った。僕からすれば何のことはないマルチプレックスの映画館だったけれど、スーにとっては全てが魅力的なようだった。

 深紅のカーペット、列になっているチケットの自動券売機、ポップコーンやジュースを販売しているカウンター、やや高めになっている天井に備え付けられている他のフロアとは違う照明、そして上映中の作品や近日公開予定の映画のポスター。そういったものをスーはきらきらと目を輝かせながら見回していた。

 読むこともできない日本映画のチラシが入っているラックを見ている彼女に周囲に聞こえないように「それは無料です」と言うと、彼女は嬉しそうに頷いて1種類ずつ1枚1枚愛おしそうに手に取り、リュックの中に大切そうにしまい込んだ。そんな彼女を見ていると僕は涙が出そうになった。

 僕がチケットを買ってポップコーン売り場へと向かおうとすると、彼女は「私のためにお金を使いすぎてはいけません。あなたは充分以上に私にしてくれています」と小さな声で言った。

 「あなたは今日、お金のことを気にする必要はありません」と僕は言い、「私たちは映画館に来たらポップコーンを食べなければならないのです」と付け加えた。

 僕たちはそれぞれポップコーンの入ったバスケットを抱えて座席に座った。映画が始まるまで、まだ館内が明るいうちは、彼女は誰にも顔を見られないようにずっと下を向いていた。そしてポップコーンをときどきつまみ、ゆっくりとかみしめるように味わっていた。

 電気が消えると彼女は顔を上げ、こちらを見てにっこりと笑った。予告編の上映が始まると部屋でビデオを見ているときと同じく、真剣に画面を見つめた。

 アル・パチーノがジョニー・デップに裏切られ、エンドロールが流れ始めても彼女は席に座り、じっと画面を見つめていた。映画に夢中になっていたのだろう、バスケットの中のポップコーンはほとんど手つかずのままだった。

 僕たちは同じように階段を使って1階まで降り、来た道と同じ道を歩いた。夕方よりもかなり冷え込んでいたけれど、スーは興奮で寒さを忘れているようだった。スーはポップコーン入ったバスケットを大事そうに抱え、何度も何度もお礼を繰り返した。

 部屋に戻って温かいコーヒーを入れ、ポップコーンを温め直して食べながら、僕たちはいつものように映画の感想について話をした。

 「私はいつか映画館で映画を観たいと小さい頃から思っていました。そして今日、映画館に入ったとき、私はそれがこんなに素晴らしい場所だとは考えていませんでした。すべてが輝いていました。私はこの日を生涯忘れないでしょう」とスーは言った。

 その夜、僕たちはたくさん話をしたけれど、僕が一番印象に残っているのは部屋の電気を消し、布団に横になってからの彼女の言葉だった。

 「映画館のポップコーンには美味しいソースがかかっていました。おそらくは材料はバターだと思います。私はあのソースに挑戦しなければなりません」