英語の本は買ったけれど、僕が仕事に出ている間、英語の単語を覚える以外に彼女が時間をつぶすためのものを用意しなければならないと思いついたのは、月曜日、つまり初めてスーを部屋に残して仕事に出かけた日、の昼前だった。テレビを見るときにはヘッドホンを使うように約束をしたけれど、彼女が僕の部屋で1人で過ごす時間帯に放送されているのはワイドショーやお昼のドラマ、時代劇の再放送などが中心で、日本語がわからない彼女がそういった番組を楽しめるとは思えなかった。

 いろいろ考えた末に僕はレンタルビデオ店に寄ってチャップリンの無声映画やトムとジェリーのアニメといった、セリフがなくても楽しめそうな作品を借りて帰ることを決めた。それから家について夕食を食べながら、彼女にどんなことをして部屋での時間を過ごしたいかと尋ねることにした。

 僕はスーパーに寄って夕食用のお惣菜と次の日の朝食用の菓子パンを買い、レンタルビデオ店でチャップリンの作品を3本とトムとジェリーを2本借りた。もちろん帰りの電車の中では仕事の間に調べた「あなたは私が仕事をしている間、何をして過ごしたいですか?」という英文を頭の中で繰り返し暗唱した。アパートの前まで戻ってくると、僕は通りから自分の部屋を見上げてみた。カーテンが閉められた部屋に灯かりらしきものは見えなかった。

 僕が部屋に入って電気をつけると、毛布にくるまって座っていたスーがこちらを見上げた。

 「コールド?」と僕は尋ねた。「寒いですか?」と尋ねたつもりだった。

 スーはスウェットを指でつまみ、それから毛布を指さして何か言葉を発した。自分が発する英単語が聞き取れないことに気付くと、彼女は身振り手振りでスウェットと毛布があるので大丈夫だということを伝えてくれた。

 僕たちは前の日と同じようにこたつの上に茶碗や皿を並べ、向かい合って食事をした。スーは丁寧に言葉を区切りながら、「忙しかったですか?」、「疲れていますか?」といった質問をした。週末の間は気づかなかったけれど、どうやら彼女はある程度英語を話すことができるようだった。彼女は本当はもっといろいろ話したいのだけれど、僕の英語力が極めて乏しいことを気にかけてくれているように見えた。

 僕もそんな彼女の気持ちに応えようと身振り手振りを交えながら、「今日は何をしていたのですか?」と尋ねると、彼女は部屋の中を掃除したりして過ごしたことを教えてくれた。そして僕が部屋の片隅に置いていたカセットテープを入れているラックを指さし、「私はこれらを聴くことができますか?」と尋ねた。「あなたは聴くことができます」と僕は答え、「もちろん」と付け加えた。スーはカセットテープを1本手に取り、タイトルや曲目が書いてあるラベルの表紙になっている鈴木英人のイラストを指さして「とても美しいです」と言った。

 それから僕たちは単語をつなぎ合わせながら、その日あったことなどを話した。おそらく1つの情報を伝えあうのに普通に会話をする数倍の時間を要したけれど、そんなことは気にならなかった。スーのほうも僕との会話を楽しんでいる様子だった。僕はそんな彼女を見ながら、どこかで目にした「一人で食べる高級料理よりも、彼女と食べるハンバーガーのほうが美味しい」というフレーズをふと思い出した。

 僕が散々練習した「あなたは私が仕事をしている間、何をして過ごしたいですか?」という英文を尋ね忘れたことに気付いたのは、食事を終えてシャワーを浴び、部屋の明かりを消して布団の中に横になってからだった。