その日、朝アパートを出てから、何度頭の中でリハーサルを繰り返したか数えきれない。会社に向かう電車の中でも、買い物の途中に誰かに話しかけられたらどうすべきか、何か予想もしないアクシデントが起きたらどう対処すべきかを僕はずっと考えていた。

 仕事を終え、部屋に戻ると彼女は前日と同じくファンヒーターの前にちょこんと座っていた。僕は部屋の明かりをつけ、ハンガーからダウンジャケットを取って彼女に着せた。大き目のマスクをつけ、フードをおろすと顔はほとんど見えなくなった。彼女の前で2,3度咳き込む仕草を見せると、彼女も意味を理解し、同じように咳き込んで見せた。僕は風邪を引いた若い娘が食料品などを買いに来たように見せかけるつもりだった。

 彼女がどこから逃げ出してきたのかはだいたい想像がついていた。二駅ほど先に風俗街を含む夜の繁華街があり、そこで東南アジア系の女性が働いているという話が高校時代に話題になったことがあった。何人かが卒業祝いと称して卒業式の夜に遊びに行ったという武勇伝のような噂も耳にした。暴力団が係わっていて怖い場所だというイメージを持っていた僕は、彼らの勇気に感心したことを覚えている。うちからはさほど遠くはないけれど、いかにもそういう場所で働いています、という雰囲気の女性や明らかに堅気ではなさそうな人たちをこのあたりで見かけたことはなかったので、きっと大丈夫だと自分に言い聞かせた。

 僕たちは静かに部屋の鍵を閉め、暗くなった通りへと出た。歩いて10分ほどのスーパーへの道のりはとても長く感じた。

 スーパーに入ると僕たちはそれぞれ1つずつ買い物かごを持ち、店内を歩いた。僕の心配をよそに僕たちに気を留める人はいなかった。僕はお惣菜や飲み物を選び、それぞれのかごに半分ずつ入れていった。最後に僕たちは「生活用品」と書かれた列に進み、安物の女性用下着が並んでいる棚の前まで来た。

 僕は彼女に商品を指差し、彼女から離れた。彼女が自分のサイズに合った下着を選んでいる間、僕は少し離れた場所からさりげなく彼女を見守っていた。

 商品を選んだ彼女が僕のところまで歩いてくるのを待ち、レジに向かおうとすると、彼女は僕のコートの肘のところを引っ張った。僕が怪訝な顔をして振り向くと、彼女は俯いていた顔を上げ、僕の手を引いて店の別の棚へと進んでいった。

 彼女は生理用品の棚の前まで来るとまた下を向いた。マスクとフードの間から除く彼女の顔は真っ赤だった。僕も同じように真っ赤になっていたと思う。僕が頷くと、彼女は生理用ナプキンとサニタリーショーツ(そのようなものが存在していることを僕はその時はじめて知った)をかごに入れ、こくりと頷いた。

 僕たちは改めてレジのほうへと進み、僕は彼女をレジから少し離れた場所で待たせた。僕は彼女に1万円札とポイントカードを見せ、自分が先に会計を済ませてくると身振りで示した。彼女が頷いたので僕は一人で精算の列に並び、順番が来るとポイントカードを渡し、会計を済ませた。彼女は僕の様子をじっと見ていた。レジの脇にあるカウンターで商品を袋に詰めると、僕は彼女のところに戻り、もう一度1万円札とポイントカードを確認してから財布を彼女に渡した。僕は彼女から目を離さずに店の出口のところまで歩き、彼女を待った。

 彼女は列に並んでいる間、ずっと下を向き、ときどき咳をする振りをしていた。彼女は何のトラブルもなく会計を済ませ、お釣りを財布にしまい、カウンターで商品をビニール袋に詰めた。そして僕のところにゆっくりと歩いてきた。僕は彼女から財布を受け取り、二人でまたアパートへと向かった。帰り道、僕の頭の中は次から生理用ナプキンをどうやって手に入れるべきかということでいっぱいだった。