私がモデルとなっていると友人たちは思っているようだけれど、ロースクールに進学したという環境が同じだけで、むしろタクがこれまで発表した小説に登場した女の子よりも私との共通点は少ないように感じた。小説の中で使うことができる私とのエピソードがネタ切れになってきたのかもしれない。

確かに主人公の恋人(正確には『元』恋人だが)についての描写は、私に性格は似ているところも多かったけれど、それはタクのそれまでの小説に登場した女性にも当てはまることだし、ロースクールでの出来事や新しい恋人とのエピソードは私には直接関係のないことばかりだった。もちろん小説内に登場する自習室でちょっとした咳払いの音がうるさいと苦情を言ってくる学生、専門書などの盗難トラブル、妬みなどからくる嫌がらせといったエピソードは私の周囲でも起こっていたけれど、ネットで検索すればいくつも見つけられる類のものばかりだったし、勉強で忙しい合間を縫ってのちょっとしたデートも一般的なカップルなら経験していそうなものがほとんどだった。

私はページを読み進めながら徐々に緊張がほぐれ、これまでのタクの小説と同じように、タクのリズムの良い語り口に自分が乗せられていくのを感じていた。

物語は終盤に差し掛かり、得意先から出てきた主人公と元恋人であるアキコの友人が偶然で出会い、カフェに入る場面へと進んでいった。アキコの友人は主人公に対して少し好意を抱いているようだった。私は無意識のうちに自分の友人の一人とタクが街でばったり出会い、お茶でも飲もうと誘い合っている光景を頭に浮かべていた。

二人の会話はお互いの近況から自然と共通の知り合いであるアキコについての話題になった。

 

 「アキコがもう新しく彼氏を作ったっていうのは分かってたよ」

 「そうなんだ」

 「うん、でも先に別れを切り出させてあげたいと思ったから待ってた」

 「どういう意味?」

 「あいつ、変なところでプライドが高いから、自分がさよならって言われたら傷つくだろうなって思ってさ。だから『別れたい』って言い出したとき、まだ俺がアキコのことを好きなんだって思わせてあげるつもりだった」

 「優しいのね」

 「最後の2年間は何にもしてあげられなかったからね。そんなに給料がいい会社でもないくせに、万が一アキコがロースクールで留年したりしたときのためにお金貯めてたんだ」

 「お金って、どのくらい?」

 「ロースクールの学費が1年90万、一人暮らしの費用が月10万だとしたら1年で120万、合計210万をアキコが大学3年と4年の間に貯めるために頑張ってた」

 「留年したら貸してあげるつもりだったの?」

 私が尋ねると彼は笑って首を振った。

 「貸してあげるんだったら、結局返さないといけないから銀行なんかで借りるのと変わらないじゃない。利子が付くかどうかとかっていう違いはあるけどさ。だからあげるつもりだったよ」と彼は言った。

 「貯められたの?」

 「なんとかね。210万を24カ月で割って毎月だいたい9万ずつ積み立ててたよ。安月給の身では辛かった」と言って彼は照れくさそうに笑い、「だからアキコを喜ばせるようなこともほとんどできなかった。車を買い替えたりとか自分の欲しい物を我慢するのは自分が勝手にやってたことだから仕方ないんだけど」と付け加えた。

「本当にアキコのことが好きだったのね」と私が言うと、彼は少し考えてからこう言った。

「もちろんアキコのことは好きだったけれど、それだけじゃないんだ。俺は小さいときから絵を描くのが好きで、美大に行きたいって思ってた。中学でも高校でも美術部に入ってた。ときどきコンクールなんかにも入賞してたんだ」

彼はそこで一度言葉を切り、喉を潤すようにコーヒーを飲んだ。

「だけど、美大に行くって結構お金がかかるんだよね。うちは貧しいっていうほどじゃなかったけど、受験前にかかる費用なんかも含めていろいろ調べて諦めたんだ」

「そうなんだ」

「もちろん、A大は楽しかったよ。友達もたくさんできたし、違う大学だけど、アキコとも知り合えたしね。でもね、美大に行った知り合いの話を聞いたりすると羨ましいなって思うんだよね。『卒業したけど仕事なくてさ』みたいな話を聞かされると、行けただけいいだろって言いたくなるしさ」

私はどんな言葉を返せばよいのかわからず、黙っていた。あまり楽しい話ではないのかもしれないけれど、彼は少し笑みをたたえているようにも見える、穏やかな表情で話し続けた。「辛いことがあったときにあの優しい顔を見たらすっと身体が楽になる」と以前アキコが言っていたことを思い出し、その顔がこの表情なのかなと考えた。

「だからお金が原因でアキコが途中で諦めなければなくちゃいけないような状況にはしたくなかったんだ。万が一留年したら辞めないといけないって言ってたからさ」

「このことをアキコは知らないの?」

「うん。将来性もない、甲斐性のない男だって呆れてたんじゃないかな。まあ当たらずしも遠からずだけれどね」

「言うつもりもないの?」と私は尋ねた。

「今更?」と彼は言って笑ったが、急に真面目な顔になって「誤解しないでほしいんだけど、留年したときのためにお金を貯めていたって言っても、アキコが弁護士になるのは無理だろうと思っていたんじゃないよ。可能性があると思ったから頑張って貯めていたんだよ」と言った。

「アキコが話したいって連絡してきたらどうする?」

「あいつから連絡してくることはないと思うよ」と彼は言い、「成功して何かマウントが取れる状況になったら電話してくるかもしれないけどね」と冗談めかして付け加えてから、腕時計に視線を落とした。

「ごめん、そろそろ行かないといけない。じゃあ、もしもアキコが司法試験に合格したら、役にも立たない貯金をしてなかったらもっといろんなところに連れていったり、いろんなものを買ってあげられたのにごめんねって言ってたって伝えておいてくださいな」

彼は最後にそう言って伝票を持って立ち上がり、財布を取り出そうとする私を制してレジへと歩いていった。

彼はドアを開けるときにこちらを見て小さく手を振り、それから少し笑顔を見せて出ていった。

 

読みながら涙が止まらなくなった。とめどなく涙が頬をつたい、ページを濡らした。私はそれでも本を閉じることはできなかった。主人公の行動や描写されている性格はタクのものではなかったけれど、この場面での主人公のセリフはタクそのものだった。私はどうしてタクの部屋で勉強していたときが一番幸せだったのか、その理由がやっとわかった。私は目には見えないけれど、大きなタクの愛情に包まれていたのだった。

タクは私を笑い者にしていたのではなかった。本の中にあったのはあの頃の私へのタクからの恋文だった。