タクの小説を読みたいという気持ちは受賞を知らされたときからあった。特に実家に帰ってきてからは、デビュー作を読んで以来、正確にいえば映画化された作品を見てからすっかりファンになった母が、タクの新刊が出るたびにすぐに買ってきていたので、タクの小説を読もうと思えばいつでも読むことができた。それでもしばらくは自分に関するエピソードが書かれているかもしれないという不安めいた気持ちと、タクが手の届かないところに行ってしまったことを改めて実感するという怖さが入り混じった、自分でもうまく表現することができない気持ちがあり、なかなか本棚に手を伸ばす勇気が持てなかった。

母の本棚からタクのデビュー作を取り出したのは、就職して1か月半ほど経った頃のことだった。明日からゴールデンウィークの長期(といっても1週間だけれど)の休みが始まるという夜、私は自分の部屋に閉じこもり、勇気を振り絞って読み始めた。「勇気を出して」というのは決して大げさな表現ではない。ストーリーの内容よりも、自分が失ったものの大きさを改めて見せつけられそうな、そんな不安が私を埋め尽くしていた。私は夕食を済ませてゆっくりと風呂につかり、表紙をめくる前に大きく深呼吸をした。

タクのデビュー作を読みながら最初に感じたのは、ソリッドな小説だなということだった。もちろん他の小説と比べてソリッドという意味ではない。そもそも私はあまり小説は読まないので、勤勉な読書家からすればタクの小説はマイルドな部類に入るのかもしれない。私が感じたのは、私が知っているタクの人柄、話し方に比べて文章がソリッドな感じがするということだ。もちろんタクらしいなという部分もたくさんあるのだけれど、私の知っているタクの言葉が円柱だとしたら、タクが紡ぐ文章は形は似ているのだけれど、六角柱くらいの少し角ばった感じで私に届いてくる印象だった。

タクのデビュー作はある事件に巻き込まれて死んでしまった恋人を想い続ける男の物語だった。主人公の暮らす街は明らかにタクが住んでいる地域をモデルにしており、アパートの裏にあるコンビニエンス・ストアや5分ほど歩いた場所にあるドラッグストアなど、懐かしい場所が数多く登場していた。昔、「国語の得意な人は、小説を読みながら具体的な光景を頭の中でイメージすることができるんです」と通っていた学習塾の夏期講習で言われたことがあるけれど、その講師の理論とは別の理由で、主人公の部屋や物語が展開していく地域が映画を見ているように私の頭の中に広がっていった。

「僕」という一人称で主人公が語る台詞や状況の描写は、タクの声で再生され、タクがあの狭いワンルームの部屋で、あるいは車の運転席で助手席に座る私に話しかけているようだった。

 物語を読み進めながら、私の頭の中ではタクが部屋に備え付けの小さなキッチンで仕事帰りにスーパーで買ってきた冷凍のチャーハンを炒めていた。朝になるとフローリングの部屋に敷きっぱなしの布団からもそもそと起き出し、直り切っていない寝癖を気にしながらJRの駅へと歩いていった。小説には何の描写もなかったけれど、一緒に夕食の買い出しに行ったスーパーの陳列のレイアウト、タクの部屋から最寄りのJRの駅までの道程が鮮明にイメージできた。冬の寒い夜に主人公の車に恋人が乗り込む場面では、タクが私を迎えに来てくれる時に必ず買って、車のドリンクホルダーに入れておいてくれた紙コップから広がるコーヒーの香りを感じ取ることができた。