スペインができるまで・3 | よくわかりたい歴史
 前回まででヒスパニアは、ローマ帝国の属州→ヴァンダル族の侵入→西ゴート族の侵入→西ゴート王国の成立→イスラムのウマイヤ朝に占領される→北部に逃げた西ゴート人が小王国をつくる、と流れてきた事を説明しました。
 この西ゴート人が作った小王国は、イスラムとの戦争でヒスパニアを奪い返しつつ勢力を広げ、キリスト教同士の内輪もめで分離独立を繰り返しつつも、キリスト教徒の王国全体でみれば、領土を確実に広げていきます。
 12世紀頃にはヒスパニアの北半分を3つのキリスト教王国が支配し、南半分をイスラム王朝が支配する状態になります。3つのキリスト教王国とは、外洋のポルトガル王国、陸戦のカスティリア王国、地中海のカルターニャ・アラゴン連合王国です。
 そして、15世紀に入る頃にはイスラム王朝の領土は南端のグラナダとその周辺を支配するグラナダ王国のみになっていました。

 1474年、カスティリア女王となったイザベル一世は、夫であるアラゴン王太子フェルナンド(フェルナンド五世)をカスティリアの共同統治者にします。
 つまり、カスティリア王国とアラゴン王国の合併です。
 カスティリア王国はレオン王国を、アラゴン王国はバルセロナ伯領カルターニャをそれぞれ同君連合として保有していますから、その2つが更に連合王国となれば、4つの国の連合となり、一気に強力な王国が出現する事になります。
 かつてのサンチョ三世による大ナバラ王国を超える大きさですし、この時代であれば、分割継承の弊害は過去の経験より、ヨーロッパの誰もがわかっていましたから、以後再びバラバラになる可能性は低いと見ていいでしょう。
 イスラムとの長い戦いで経験を積み、ヨーロッパでも1・2を争う最強の陸戦国であるカスティリアと、シチリア島やナポリ王国にギリシアにまで勢力圏を伸ばす地中海王国アラゴンの連合です。

 3つの国のうち2つが合併するとなっては、残るひとつは黙ってはいられません。
 ポルトガル王アルフォンソ五世は、王妃でありイザベル一世の姪でもあるファナを後押ししてカスティリア女王即位を宣言させます。
 ここで、カスティリア・アラゴン連合とポルトガルとの戦争が起こり、5年に渡るこの戦いに勝利する事で、ヒスパニアの大部分を支配するスペイン連合が誕生するのです。
 このスペイン連合は、あくまでも複数の王国(カスティリア王国(含むレオン王国)、アラゴン王国、バルセロナ伯領カルターニャ)、シチリア王国、ナポリ王国の連合国家であり、その後もひとりの王に治められるとは言え、あくまでも同君連合です。
 これ以前にも、何度も同君連合が出現していますが、それがなぜ分離するかといえば、実力で分離独立を勝ち取るわけではなく、同君連合の王が自分の子供たちに分割して国を与えてしまう場合が多かったからです。
 子供に均等に与える相続法は、ゲルマン人の伝統的なやり方でしたが、この頃から、ようやくそれが改まってきたという事でしょう。

 スペインの誕生は、同君連合が成立した年とする場合、このポルトガルとの戦争に勝ち同君連合を承認させた年とする場合、この後のレ・コンキスタ完成の年とする場合、どれにするかは諸説ありますが、いずれにせよ「15世紀末にスペインが誕生した」という事はできます。

 この同君連合の成立にあわせて反対派の一掃にも成功したカスティリア王国は、1482年に対グラナダ王国の戦争を開始し、10年後の1492年、ついにグラナダ王国を滅ぼし、レ・コンキスタを完了させます。
 この年は、スペインの支援を受けたコロンブスが新大陸への航路を発見した年でもありました。コロンブスはイタリア人ですから、本来ならコロンボですが、スペイン風に表記されるのが一般的になったのは、スペイン王国の事業として航海を行ったからです。
 スペインは、レ・コンキスタ後を見据えたポルトガルとの覇権争いに出遅れないために、どうしても外洋航海を習得する必要がありました。これには、アラゴン王国の地中海での航海技術が大きくものを言います。一から始めるのと比較して、大きなアドバンテージと言えるでしょう。
 そして、レ・コンキスタ完了のおよそ百年後、静かな地中海で経験を引き継いだ強国スペインが、バイキングの航海技術を受け継ぐ三流国イングランドと、荒れ狂う北海で会戦したために敗れる事になるのがアルマダの海戦です。

 レ・コンキスタの後、アラゴン王フェルナンド五世は、ナバラ王国の南半分を征服します。この戦いには、イタリアで失脚し亡命していたチェーザレ・ボルジアがナバラ王国側で参加し、戦死しています。
 1515年、ナバラ王国の南半分はスペインに併合されますが、建前上は1833年まで連合王国の中の一王国という位置を保ちます。カスティリア王が、ナバラ王国の副王として南半分を治めるという建前です。ナバラ王国の北半分は、後になってフランス王国に吸収される事になります。

 こうして、ヒスポアニアが、ポルトガルの除いてスペイン連合として統一され、その最初の女王となったのが、ファナ・トラスタマラです。
 カスティリア女王イザベル一世とアラゴン王フェルナンド五世の娘にして、後のスペイン王兼神聖ローマ皇帝カルロス一世(カール五世)の母、イングランド王ヘンリー八世の最初の王妃カタリーナ(キャサリン・オブ・アラゴン)の姉にあたる女性です。
 彼女の異名は、ラ・ロカ。この言葉は、狂女を意味します。