中世欧州の戦争 | よくわかりたい歴史
 百年戦争をはじめとする中世欧州の戦争は、地方領主が雇った傭兵団と傭兵団の戦いでした。数百人対数百人の小さな戦争です。
 しかし、王が外国と戦争をする場合などは大規模な軍隊が必要になります。そういう場合、王は支配下の地方領主が雇った傭兵団をまとめて連合軍とし、これを国軍として運用していました。
 傭兵は契約によって戦争をするわけですが、彼らは戦場を渡り歩き、その場その場の契約でお金をもらう存在です。雇用者がいない状態の時は、農村を襲って略奪して糊口をしのぎ、戦時中にも敵の所有する農村や都市が目の前にあれば、戦闘に加わるよりもそこを略奪する事を優先しました。もちろん、敗戦は略奪の時間もうまみも奪い去りますから、勝てる戦いを棒にふってまでというわけではありませんが、勝ちに貪欲でなく略奪に貪欲だったのは事実です。
 傭兵は、武装から何から自弁でまかなっていましたが、何より大事な商売道具は命そのものです。そう、傭兵は簡単には命をかけてはくれません。

 それでは何故、傭兵が主流だっのでしょう。

 欧州における騎士は、小領主です。契約によって主君の下で参戦しますが、契約に定められた日数以上は働こうとはしませんん。よほどの好条件での契約ならば、多少の「残業」はしてくれるかもしれませんが、基本的には契約した内容には誠実に、それ以外には無関心です。主君が滅んでも別の主君を探せばいいだけの話です。
 カペー朝フランスにおける一般的な参戦義務日数は1年あたり40日までだったといいます。
 また、欧州における騎士の絶対数は非常に少なく、領主にしてみると特殊ユニット扱いです。さきほどのカペー朝時代のフランスでは、王と契約を結んでいた騎士は約250人、フランス王とフランス国内の領主の全てを足しても約1300人で、これでは主兵力とはなりえないのは明白です。
 これでは騎士には頼れません。何らか別の手段で兵力を補充しなくては、戦争が終結していないのに兵力がなくなるなどという事にもなりかねません。それは即、敗北を意味します。

 同時期の日本は、徴兵制です。農閑期の間だけ農民を兵士として従軍させます。
 というか、秀吉が兵農分離するまでは、大半の武士は農民であり、大半の農民は武士でした。ようは自分の土地は自分で守るのが農民の当然の義務で、それが武士とイコールの存在だったわけです。
 この徴兵制において兵士は、戦争をしていない時は農産業に従事していますから、いわば、自分の食い扶持は自分で稼ぐ軍隊です。領主にしてみれば、経済的な負担はほとんどありません。
 しかし、農閑期以外は規模が小さくなる(専業武士だけだと冬の1/10くらいの数になる)、戦死者がたくさんでると産業基盤が破壊されて立ち直れない、遠征して占領しても春になる前に農地に戻してやらなくてはならないため遠征ができず占領政策も難しい、などの問題点があります。

 これに対して傭兵制度は、戦争の時だけ金を支払えばいいため経済的負担は軽く、不要になれば解雇できます。いわば契約社員と同じですね。必要な時だけ雇って、いらなくなったら契約を終了する。
 傭兵制度は、大規模な常備軍を備える事ができない、経済力も官僚制度もない国には持ってこいです。
 しかも、中世日本の徴兵制と異なり、戦死者がいくらでても生産力には影響がないため、領主は痛くありません。むしろ、傭兵が全滅して戦争に勝利する方が、傭兵料を支払わなくてすむので得という事になります。傭兵なのでどこへ遠征しても、金と食い物さえ与えればついてきます。
 しかし、すぐ逃げる、下手をすると国内の村すら略奪するなど、大きなデメリットもあります。
 中世日本のような徴兵制度ですと、戦争で守るものは自分の土地だから必死に戦いますが、傭兵はそうではありません。戦争に負けようが国土が荒れようが、自分が生き残って報酬をもらえればそれでいいわけですから、必死になりようがありません。

 傭兵は雇う側に問題がある場合も多く、食料や物資は配下の騎士たちにしかまわさず、傭兵たちには現地調達を命じる事も少なくありませんでした。
 そうなると傭兵の側も、略奪を当たり前のようにやっていく事になります。
 やがて、これではまずいと略奪を禁じる代わりに、雇い主が食料、物資を供給するようになっていきます。これは、欧州において徐々に中小貴族が衰え、王権が強くなってきたために、雇用主は王や大貴族で金をもっている場合が多くなってきたからこそですが、そうなると、十分な補給の保証なしでは戦わない、いわばヌルい軍隊になっていきます。

 つまり、欧州が傭兵制度だった理由は、常備軍を維持するシステムも経済力もなかったからです。
 さらに、領主はその土地に根付いた存在ではなく、農民を徴用しようにも国内の把握が十分でないため、これもできません。
 欧州において、自分の土地を守る意識をもった大規模軍隊というのは国民国家の登場を待たねばなりません。

 さて、傭兵たちの戦いぶりはどのようなものだったのでしょうか。
 傭兵たちは結果で金を貰うわけですし、雇い主が負けてしまえば報酬が出せなくなる場合だってありますから、その意味ではプロフェッショナルとして懸命に戦います。
 しかしながら、傭兵は傭兵同士で顔なじみという場合も少なくなく(特にイタリアではそうでした)、一見の領主などよりは同じ傭兵の商売敵にシンパシーを感じる事もあり、一気に決着をつけるような戦い方をせず、酷い時には形だけ戦うふりをしながら、相手領土に入り込んで略奪に精を出す場合も少なくありません。
 傭兵にとって最高の傭兵隊長は、部下の傭兵を実際に戦わせない傭兵隊長です。戦場で傭兵隊長同士が、お互いの技量や兵力を口頭で語り合って交渉で勝敗を決める場合すらありました。
 このようにして、傭兵文化とでも言えばいいのでしょうか、傭兵特有の戦争のやり方や儀礼がひろまっていきます。

 こういった傭兵文化が定着していたからこそ、近代では当たり前の突撃攻撃を懸命に行ったジャンヌ・ダルクは、戦いの当初に勝利をおさめる事ができたのです。
 ジャンヌの率いた傭兵は、ジャンヌにシンパシーを感じる兵隊たちであり、ある意味、時代を先取りした国民軍ともいえます。
 個人的なカリスマに優れた傭兵隊長はいくらでもいましたし、それらを雇い入れる騎士や領主たちにもカリスマのある者はいました。しかし、彼らはみな、傭兵たちの戦いのやり方という「常識」を知っており、これに縛られていたとも言えます。
 しかし、戦争のやり方など学んだ事もないジャンヌにはそのような常識はありませんでした。