よくわかりたい歴史
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 さて、本日はバレンタインデーです。
 キリスト教文化圏的には男女の愛の誓いの日です。日本的には女性が男性のチョコレートを渡す日です。チョコレートは日本独自の習慣で、1958年にお菓子業者が打ったキャンペーンで、チョコレートを販売促進したのがはじまりです。
 キリスト教文化圏でも日本でもない場所では、1年のうちの1日にであり特に意味はありません。

 バレンタインデーは、ローマ帝国統治下で処刑され殉教したヴァレンティヌスに由来すると言われています。
 何をやって処刑されたかというと、当時のローマ皇帝が出した「従軍中の兵士は、退役するまで結婚してはならない」という布告に真っ向から逆らって、兵士たちの結婚式を執り行ったからです。

 こう書くと、ヴァレンティヌスはローマ皇帝の非人間的な命令に逆らって処刑された立派な人のように思えますが、そうではありません。
 ローマ皇帝の発した命令は、当時のローマ帝国防衛のためには必須の事でしたし、キリスト教は当時のローマ帝国にとっては脱税者の集団であり、むしろ、キリスト教会が国防に協力していれば、そのような命令は発する必要がなかったと言ってもいいでしょう。
 ヴァレンタインが立派な人になったのは、後にキリスト教がローマ的文化を駆逐して勝利したからで、ようは勝った側が都合のいい部分だけを書いて、都合の悪い部分を書いていないから、そう感じるだけの話です。



 なお、このヴァレンティヌスという人、史実では何をやったかもわかっていませんし、生没年すら不明です。
 司教だったかどうかも定かではなく、そういう名前の殉教者がいたらしい、という事しかわかっていません。

 そして、後年、教皇ゲラシウス1世が、ヴァレンティヌスという殉教者を聖人とし、祝日として2/14と決めます。この日は、ローマの神ユノの祝日でした。
 キリスト教は、ローマ人やゲルマン人に布教していく過程で、彼らの民族宗教を取り込んでいきました。
 クリスマスは、325年、教皇ユリウス一世が、ローマ暦で冬至の祭りで、ミトラ教の祝日で、ゲルマン人にとってはユールの祝日だった12/25を、キリストの誕生日という事にして定着させたものです。ちなみに、キリストの誕生日は、聖書の記述を事実とするなら、初夏だと推測されます。
 多神教の神々を聖人に置き換えていく作業の中で、聖人の数は常に不足していました。よって、聖人は4世紀から10世紀にかけて大量生産されていきます。

 ヴァレンティヌスの件とはまったく別に、教皇ゲラシウス1世は、ローマ古来の豊穣と多産を祈るルペルクスの祭りを禁止しています。
 この祭りはヴァレンティヌスとは何の関係もなく、「教皇がルペルクスの祭りをヴァレンティヌスの祝日を持ち出して、取り替えた」というのも後世の創作です。

 ルベルクスの祭りは2/15に行われるものでした。
 ですが、古代の祭りは基本的に前日の日没からはじまり、日の出まで続けるものです。
 例えば、クリスマスイブは、クリスマス・イブニングの事であり、12/24の夕方から日付がかわるまでの事を指します。
 ですので、ルベルクスの祭りも2/14の日没からはじまるものであり、後に2/14と同一視される原因のひとつとなります。
 しかし、この時点ではヴァレンティヌスとの関係は皆無でした。

 しかし、千年の年月が流れ、ルベルクスの祭りも忘れ去られ、ヴァレンティヌスの名前は聖人としての名前と祝日だけが記録され、表に出てこなくなります。

 14世紀に、イングランドの詩人ジェフリー・チョーサーが「Parlement of Foules」の中で「聖ヴァレンタインの日」に言及します。
 チョーサーはカンタベリー物語なんかを書いた人です。
 曰く、「聖ヴァレンタインの日は、鳥がつがう相手を見つける日であり、愛の日である」
 これは、リチャード二世の結婚式2/14にちなんだ詩でした。リチャード二世はこの時、即位3年目、13歳です。
 リチャード二世は、百年戦争中期の停戦期に幼くして即位し、農民反乱などの責任を追及されて、ヘンリ・ボリンブログ(ヘンリ四世)に王位を奪われた王です。偉大なるエドワード三世の孫でエドワード黒太子の息子にあたります。

 やがて、チョーサーの詩が広がり、15世紀に愛する人に贈り物をする日とする習慣が定着します。

 18世紀に、聖人研究家のアルバン・バトラーが、著書「Lives of Saints」の中で「聖ヴァレンティヌス」こそが「聖ヴァレンタイン」である事、また、その伝説について言及します。

 聖ヴァレンティヌスがローマの兵士を結婚させた司祭である事、ルペルクスの祭りを中止するにあたって、その日を聖ヴァレンティヌスの祝日とした事、などは、ここまでのどこかの期間で考え出された創作のようです。

 チョーサー→バトラーのリレーによって作り出されたヴァレンタインの実在は疑わしいとして、1970年、カトリック教会は聖ヴァレンティヌスの名前を聖人のリストから削除します。

 という事で、ヴァレンティヌスは実在の人物ではないのですが、「どういう事をやったとされた人なのか」「仮に実在したとして、その行為をどう評価すべきなのか」について書いていきたいと思います。
 なお、ローマ帝国が、ヴァレンティヌスが生きていたとされる時代に「現役兵士の結婚を禁じる」命令を出していたのは事実です。



 まず、ローマ皇帝がキリスト教を弾圧した理由は、キリスト教徒が納税もせずに私財を溜め込み、ローマ帝国に対してしばしばサボタージュやテロを行い、外敵であるゲルマン人たちと通じて外患誘致を行っていたからです。
 正直、初期のキリスト教会はローマ帝国にとっては、創価学会の財力と政治力にオウム真理教の過激さを加えた、無法者の集団だったのです。ローマ帝国は、キリスト教をその信仰ゆえに弾圧したのではなく、組織的な犯罪者集団だったから罰しようとしていただけです。
 ちなみに、当時のローマ市民も同じ心境で皇帝のキリスト教施策を支持していました。

 特にヴァレンティヌスの生きた時代である3世紀は、ローマ帝国は度重なるゲルマン人の侵攻を食い止めるための軍事支出で財政がボロボロでした。
 西にはガリア帝国(スペイン、フランス、イングランド)が分離独立し、東ににはパルミラ王国(シリア、イラク、エジプト)がローマ帝国の領土をどんどん奪っていきます。特にローマ帝国の食料庫でもあったエジプトをパルミラに奪取されたのは、ものすごい衝撃でした。
 北からは慢性的な蛮族の侵入が続き、ローマ帝国内は掠奪され放題という酷いありさまです。
 ローマ帝国は、軍事支出の増大で破綻寸前です。それでも、国防が上手くいっているのなら救いもありますが、どちらの方向でもやられっぱなしという酷い状況です。
 多くのローマ市民が税負担に苦しむ中、キリスト教会は納税しませんでした。当然、兵役にも就きません。
 キリスト教信者の多くは納税を拒否し、お金は教会に寄付するようになります。当時のキリスト教会は、基本的に知的レベルが低い人や貧困層が主な信者でした。多くのローマ市民たちがキリスト教に雪崩れをうって改宗するのは、コンスタンティヌスがキリスト教を公認し、キリスト教聖職者に税制上の特権をいくつも認めて以後の事です。
 いくら貧困層がメインとはいえ、数が集まれば教会に集まるお金は莫大なものになります。キリスト教会はそのお金を信者の相互扶助に公平に使おうとしました。キリスト教会は、ローマ帝国にとっては脱税を行う犯罪者集団ですが、教会の仲間に対しては限り無く優しく、頼もしい保護を与えてくれる存在でした。仮に1ディナリウスの寄付もなくても、タダで泊まる場所や食事を提供し、働く場所を世話してくれる、最高の福祉施設だったのです。
 当然、信者は増えていく一方です。
 宗教勢力ですから、当然、武装しています。豊富な資金力で傭兵を雇い、仕事のない信者を兵士にしたてあげます。
 当時のローマ帝国は、上に挙げた財政難のせいで十分な防衛力が整っていません。そのため、蛮族を領土内に侵入させ、焦土作戦を行って殲滅する、といった戦法をとっていました。国境付近の住民にとってはたまったものではありません。自分たちが盾にされているのと同じ状況です。
 そんな時にキリスト教信者には逃げ込む先がありました。キリスト教会です。彼らは信者ひとりを守るために、数十人が命を落とす事になっても、それをしようとします。こういう集団は、内部結束が固くなり、強くなる一方です。

 多くのローマ皇帝は、このキリスト教会が溜め込んでいる莫大な資金を防衛費にあて、キリスト教信者を兵士として前線に引っ張り出すために、キリスト教会を「弾圧」したのです。
 コンスタンティヌスは、発想を転換し、キリスト教を公認する事で、キリスト教会の仲間になる事で、それらを利用しようとしました。コンスタンティヌスの政策は大当たりで、以後は、キリスト教会がローマ帝国を支配していく事になります。そして、そうなったとたんに、宗教会議という名前の内ゲバで、どんどん分裂していく事になるわけですが。

 ヴァレンティヌスが処刑されたとされる時の皇帝は、クラウディウス二世・ゴティクスです。ゴティクスというのは、ゴート族を征服した人、という意味です。かの偉大なるスキピオはアフリカヌスです。アフリカ(カルタゴ)を征服した人という意味で贈られました。という事で、このクラウディウス・ゴティクスは軍事的には偉大なる皇帝のひとりという事です。
 3世紀はじめからローマ帝国に侵入し、我が物顔に掠奪を繰り返していたゴート族に対し、それまでのローマ皇帝は連戦連敗でした。このゴート族を撃破し、帝国の領土から追い出したのが、このクラウディウス・ゴティクスです。彼が皇帝だった期間は、わずか3年ですが、その間ずっと戦場にあって蛮族相手に勝利を重ね続けました。死因は、疲労によって病気を患ったためで、いわば過労死です。
 彼がはじめたガリア帝国(ローマ帝国内のガリア地方が反乱し分離独立した国)征服は、彼の次の皇帝アウレリアヌスによって達成されます。アウレリアヌスは、クラウディウス・ゴティクス配下の将軍でもあり、言わば師弟2代で成し遂げた偉業です。
 クラウディウス・ゴティクスは、蛮族に対してやられっぱなしだったローマ帝国を、はじめて逆襲に成功させた皇帝です。これで自信を取り戻したローマ帝国は、以後の皇帝の努力もあって、徐々に安定を取り戻していきます。
 この状況を見てもわかるとおり、当時のローマ帝国はピンチの連続でした。
 ローマ市民が何より欲したのは「戦争に勝てる皇帝」でした。
 そして、クラウディウス・ゴティクスは、その「戦争に勝てる皇帝」だったのです。

 つまり、当時のローマ帝国にとって最も大事な事は、「戦争に勝つ事」です。
 今まさに蛮族が入り込み、掠奪の限りを繰り返し、ローマ市民が殺されているのです。当然でしょう。
 そういった状況下にあっては、ローマ皇帝は何をおいても蛮族撃退を優先するのは当然でしょう。
 そして、そんな状況であるにも関わらず、キリスト教会は納税する事も兵士を供出する事もせず、身内の安全だけを計っていました。当然、ローマ帝国の外でそれをやるのであれば、単なる独立国ですから文句もないでしょう。ですが、彼らは前線で戦うローマ皇帝の後方で、ローマ軍団の防衛線を突破した蛮族からのみ自分たちの身を守っていたわけですから、ローマ皇帝としても文句も言いたくなるでしょう。

 さて、「現役兵士の結婚を禁じる」命令についてです。

 当時のローマ帝国の軍団は、その数の不足を補うために、古来の重装歩兵中心から騎兵中心に移行していました。
 十分な数の重装歩兵がいる時は、国境に添った防衛線にいくつもの駐屯基地を作り、そこに歩兵を配置して防衛を行ってましたが、兵士の数の不足と攻めてくる蛮族の増加で、この方式では守りきれなくなってしまったのです。兵士の数の不足は、言うまでもありませんが、キリスト教徒の兵役拒否も大きな原因のひとつです。
 少ない数で長い防衛線を守るためにはどうすればいいか。
 軍団基地を国境からかなり奥に作っておき、機動力をもって侵入した蛮族を迎え撃つしかありません。これが、騎兵中心に移行していった理由です。そして、この防衛方法では、軍団は、たえずあちこちに遠征します。一箇所に留まる事はなく、侵入した蛮族にあわせてフランス北部からブルガリアまで移動する事になります。
 従来の歩兵が駐屯する方式であれば、家族を近くの村などに住まわせておく事もできたでしょう。
 しかし、騎兵を中心とした機動力方式では、家族を連れていく事はできません。馬にものれない家族を連れていく事は機動力の低下を招きますし、もちろん、食わせる糧食も数倍になります。それを運ぶ輜重部隊の負担も増えます。
 さりとて、妻子ある身では、家族と十年以上引き離され、僻地を連れまわすわけにもいきません。
 だから、独身を命じたのです。退役したら年金と土地を与え「そこで家族を作って暮らせ」というわけですね。
 もちろん、現代の価値観で見ればこれは酷い命令かもしれませんが、そうしなければ帝国全てが蛮族に蹂躙されるわけですから、ローマ皇帝としては当然の命令でもあります。

 これに逆らって兵士を結婚させたヴァレンティヌスが、果たして本当に立派な人でしょうか?
 国が滅ぶかもしれない危機にあたって、個人の人権を優先し、結果、外国の侵略軍によって人権が全て吹っ飛ぶような扱いを受ける。本末転倒ですよね。
 つまり、ヴァレンティヌスはこういう事を言ったのと同じです。

「お前たちが蛮族に皆殺しにされてもいいから、我々は個人の愛を貫いて結婚する」

 無防備都市宣言を思い出すフレーズですね。

「お前たちが戦争で皆殺しにされてもいいから、俺たちだけは安全地帯を守る」

 もっとも、ローマ帝国が蛮族に敗れれば、次に蹂躙されるのは全てのローマ市民であり、当然、その中にキリスト教徒も含まれる事になるんですけどね。
 バレンタインデーの由来などが、多くのウェブサイトに掲載されています。
 その多くは、「ヴァレンティヌスは男女の愛を守ろうとした立派な人」と書かれています。
 本当にそう思うのか、もう一度、考え直してもらいたいものです。

 ヴァレンティヌスによって結婚させてもらった兵士たちには同情の余地もあります。死地に赴く前にせめて、というのは十分理解もできます。
 ですので、クラウディウス・ゴティクスも、兵士たちは罰していません。
 ここで問いたいのは、兵士ひとりあたりの負担を増やし、そのため軍制上結婚を禁じざるを得ない状況にしたのはキリスト教徒であり、そのキリスト教徒であるヴァレンティヌスが「結婚を認める」事に対して、これは立派な行為なのか、という事です。

 イングランドの目が本格的にアイルランドに向かうのは、エリザベス一世の時代です。
 メアリ・ステュワートを処刑した後、エリザベス一世は後継者としてメアリの息子であるスコットランド王ジェームズを指名します。
 これによりイングランドとスコットランドは、一応の和平状態となります。今までのいきさつや諸侯同士のシコリなどはいくらでも残っていましたが、国と国とをあげて全面的にぶつかる必要性は薄くなりました。エリザベス一世亡き後は、同じ王を頂く国同士となるからです。
 これでジェームズがエリザベス一世よりも先に亡くなる、などという事になれば、再びイングランドによるスコットランド侵略がはじまり、スコットランドはフランスに助力を頼み、という今までのパターンに逆戻りしていたかもしれませんが、史実はそうはなりませんでした。

 スコットランド問題が当分放置可能という事になれば、次はアイルランドです。
 という事で、イングランドによるアイルランド殖民、言い換えれば侵略が本格的にはじまったのが、エリザベス一世の時代です。
 この頃は、カトリックであるスペインとの戦争状態にあったため、同じくカトリックであるアイルランドが真横にいる事は、イングランドにとって死活問題でもありました。
 冷戦時代にアメリカの喉元にキューバがあるようなものですね。
 スペインをアルマダの海戦で破って以後、イングランドは腰を据えてアイルランド殖民に乗り出します。そして、ジェームズ一世の時代には、アイルランド全域にイングランド人の殖民が及ぶようになります。とは言っても、東部の一部地域を除いては、支配していたと言えるほどではなく、せいぜい共存していた程度でした。
 イングランド側から見ると、人口において圧倒的に勝る優位を利用して、実質的に土地をのっとってしまおうというのは、有効な策です。戦争に訴えれば、フランスやスペインなどの介入を招く結果にもなりかねません。

 しかし、そのイングランドの優位は、スコットランドとの戦争に敗れた事で大きく揺らぎます。
 アイルランド諸侯はイングランド組し易しと侮り、そういった雰囲気が蔓延した結果、イングランド殖民が虐殺されるという事件が起こります。
 これをきっかけに、アイルランド・カトリック同盟が成立する事になり、アイルランドはイングランドとの全面衝突の道に踏み込んでいく事になります。

 アイルランドの多くの諸侯たちは、イングランドとの全面衝突を望んでいませんでした。
 今までも、名目上は「ロード・オブ・アルランド」だの「アイルランド王」だのと、イングランド王が名乗るのを許していましたし、実際に全面戦争になれば勝てるわけもありません。よしんば勝てたとしても、自分たちの蒙る被害も甚大なものになるでしょう。
 イングランドの緩やかな支配が、厳しいもにならなければよかったわけです。
 エリザベス一世はそのあたりを見抜いていたため、戦争や侵略ではなく殖民という手段ととったのだと思います。彼らの反発を買わないようにゆっくりと骨抜きにしていくには、殖民という手段は非常に有効だったと思います。現代でいえば、文化侵略に近いものがありますね。
 そして、偉大な女王が定めた道筋を、ステュワート朝の王たちもたどるように殖民政策を進めていきました。
 そのままいっていれば、アイルランドがイングランドに完全に同化吸収されるのも時間の問題だったでしょう。そうなれば、現代にも尾を引く、アイルランド独立問題は、もっと緩和されて、スコットランドの独立運動の方がよほど重要案件になっていたかもしれません。

 しかし、それでもイングランドとの全面対決になってしまったのには2つの理由がありました。
 ひとつは絶対王政の信奉者であるチャールズ一世が、彼の主観でいう反逆者たちに対して一切の妥協をしなかった事によります。
 もうひとつは、ローマやスペインから支援者たちがやって来て、イニシアチブを握ってしまった事です。カトリックの擁護者を自負する彼らは、プロテスタントに対して一切妥協する気はなく、それどころかアイルランドをカトリックとプロテスタントの代理戦争の場のひとつにしてしまったのです。

 そうこうするうちに、イングランドでは王チャールズ一世を議会が追放し、内戦に突入してしまいます。対スコットランド、対アイルランドとの戦争が続き、戦費をまかないきれなくなった王が議会を召集し、議会は王と全面対決の姿勢を見せた事がきっかけです。
 結果として、アイルランドは、イングランドとの戦争に勝利し、カトリックの島となります。

 1649年、内戦に勝利しイングランドを掌握した議会派は、内外のカトリック勢力の駆逐に手をつけはじめます。その過程で行われたのが、アイルランド遠征です。この時のイングランドの指導者は、護国卿オリバー・クロムウェル。
 妥協を知らぬ彼の戦略は、アイルランドの徹底的な壊滅であり、多くのカトリックが虐殺され、エリザベス一世が目指した方向とは真逆の形で、アイルランドはイングランドの支配下に入る事になります。
 幾多もの大量虐殺はアイルランド人の記憶に刻み込まれる事となり、アイルランドがイングランドに同化する事を現代に至るまで徹底的に拒む根源理由となってしまいました。

 ジェームズ一世は、同君連合となったイングランド王とスコットランド王の他、「アイルランド王」も名乗っていました。アイルランド王を名乗るようになったのはヘンリー八世の時代からで、それ以前は「ロード・オブ・アイルランド」です。アイルランド卿などと訳されます。

 ロード・オブ・アイルランドは、アンジュー帝国の始祖ともいえるヘンリー二世がローマ教皇から頂いた称号で、ヘンリー二世は、この称号をアイルランド支配の正統性としてアイルランド東海岸に上陸、アイルランドの一部を占領します。
 ヘンリー二世の時代、アイルランドは、カトリックからみた異端の巣窟でした。
 思い出してください。フランク王国がカトリックに改宗してローマ教皇の守護者となるまでは、ゲルマン人キリスト教徒の主流は、アリウス派でした。つまり、異端です。正統であるアタナシウス派に中央(イタリアやギリシア、オリエント)から追放された異端は、北のゲルマン人や南のタンザニア、東のペルシアなどに拡散していきます。
 西ヨーロッパでは、スペインとイタリアはカトリックでしたが、フランスやドイツなどは異端でした。やがて、フランク族のカトリック改宗によって、ヨーロッパ全体がカトリックに飲み込まれていきますが、北西の端であるアイルランドには、1171年当事、いまだに異端が残っていました。というか、追い込まれた異端の吹き溜まりだったわけです。
 これらをローマ教会の影響下におくために、ローマ教皇はヘンリー二世にロード・オブ・アイルランドの称号を与えたわけです。

 しかし、ヘンリー二世以後、アイルランドを実効支配したイングランド王はいませんでした。
 ダブリン周辺の一部地域のみを支配し続けたものの、イングランド王の視線は当初はフランスに向いていましたし、百年戦争前あたりからはスコットランドに向けられていました。

 時代は下って、16世紀初頭、ヘンリー八世です。
 ヘンリー八世は例の離婚問題でローマ教皇から破門され、その上、国教会を作ってカトリックから離脱してしまいます。350年以上前の事とはいえ、ローマ教皇から頂いたロード・オブ・アイルランドを名乗ってもいられない、という事で、自ら「アイルランド王」を名乗るようになります。
 とは言いつつも、やはり、実効支配には程遠い名前だけの存在でした。
 そして、アイルランドはカトリックの国となっていました。
 イングランドという敵を抱えたアイルランドにとって、生き残るためには、イングランドの敵であるフランスやスペインに協力してもらうのが、最も近道です。そうやって生き残ってきた三世紀半の間に、アイルランドはカトリック化していったのです。

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 妻に言われた事があります。
 もちろん、真剣に、ではなく冗談交じりに、でした。

「君を大事にする手段が仕事だから」が、私の回答でした。
 仕事によって得られる収入は、生活の糧や、余暇を楽しむ事や、将来のための貯金などの原資になるわけですから、それを蔑ろにするという事は、生活レベルが落ちたり、どこかに遊びにいく余裕もなくなったり、将来に不安を抱えたりする事になります。
 明日、相手がいなくなってしまうのであれば仕事を放り出す事も考慮すべきでしょうが、今後もずっと一緒に歩んでいくつもりなら、それを支える手段を安易に手放す事はできません。
 もちろん、休んでも問題ないような場面で仕事ばかりを取るのは、手段という範囲を超えてしまってますから、つねに仕事を優先すべきという話には、もちろんなりません。
 こんな感じの事を理屈っぽく語る自分を、生暖かい目で見守りながら微笑を浮かべている妻が亡くなって、もう、2年半が経ちます。

 妻が最期に意識を失う3日前の祭日、私は休日出勤で仕事をしていました。
 妻が最期に意識を失う前日の土曜日、疲れが溜まっていた私は「もうちょっといてくれ」と頼む妻を病室に置き去りにして20時丁度に病院を後にしました。
 妻が最期に意識を失った日曜日の午前中、私は自宅の掃除をしていました。午後、私が病院につくと妻は昏睡状態でした。そして、その後、言葉を交わす事は二度とできませんでした。

 あれが最期になるとわかっていたら、仕事などすべて放り出して、ずっと病院にいる事を選んだとおもいます。ですが、私が仕事を放り出したのは妻が亡くなってからでした。1年半、働く事もできずに、ただただ引きこもっていました。まったくもって無意味な時間です。1年半も働かずに生活できるなら、妻の生前にそれをやっておけばよかったのに、と今でも思います。
 人生ママならなものです。

 大事なものを大事にできるのは今この時だけかもしれない、という事を頭の片隅において、理屈に反してでも感情にまかせ目の前の大事な人との時間を余計に確保する事も、たまにはいいのではないでしょうか。

 ステュアート朝は、はじまって早々に王権vs議会、聖公教会(国教会)vsピューリタンという対立構図を生み出してしまいました。
 そう考えると、テューダー朝の王たちは、強権的であったヘンリー八世ですら「上手くやっていた」という事ができるのかもしれません。カトリック&スペインという外敵の圧力が非常に強かった時代にあっては、それが求心力を強める効果を持っていたためもあるでしょう。

 ジェームズ一世は、実に絶対王政の王のやるように反対者たちを弾圧します。
 ちなみに1620年には、ピューリタンたち百数名がイングランドを脱出してアメリカ大陸にたどりつき、プリマスに殖民します。彼らは、ピルグリム・ファーザーズと呼ばれ、彼らの起草したメイフラワー誓約は、今に繋がる合衆国憲法のルーツのように語られていますが、これは余談です。

 ジェームズ一世の時代には、テューダー朝の王たちが苦労して辻褄をあわせてきた対立構造が、まだ抑え込まれていた時代です。
 かのエリザベス一世の時代にも、そういった対立がなかったわけではありません。どうにかこうにかコントロールし、抑え込んできただけなのです。決して、ジェームズ一世やチャールズ一世が作り出したものではなく、彼らにその責任の全てを帰する事はできません。彼らはただ、それをコントロールする手腕に欠けていただけです。
 つまり、劣悪では決してなく、単に優秀ではなかっただけの話なのです。

 不満も反抗も、目の行き届かない地方や辺境からはじまります。
 王のお膝元イングランドでは、どうにか抑え込んでいた王への不満が、まずはスコットランドで表面化します。イングランドの王を兼ねるようになったジェームズ一世が、以後、数度しか戻る事はなく、チャールズ一世にとっては自分の王国の一地方に過ぎないと思っていたスコットランドです。
 しかし、スコットランドはわずか半世紀前まで、イングランドと血で血を洗う戦争を繰り広げた独立国だったのです。
 ですから、これは純粋に宗教的不満から起こった戦争(反乱)ではなく、併呑されたかつての独立国が起こした分離独立戦争と見る事もできると思います。

 表面上の理由は、イングランドが監督制が主流だった(国教会が監督制)のに対し、スコットランドは長老制が主流であり、チャールズ一世がスコットランドの教会を、イングランドと同じく監督制で運用しようとしたためです。

 監督制、長老制、会衆制というのは、どれも教会の運営方法に関わる制度の事です。
 監督制というのは、カトリックがそうであるように、中央が聖職者に相当する牧師(プロテスタントに聖職者はいません)を任命しピラミッド的な階層社会を作っていく運営方法です。
 対して、長老制というのは、その地方の代表としての牧師や長老がおり、彼らが地方を代表して集まって全体を運営していく方法です。
 3つめの会衆制は、牧師はその場その場の会合のみの存在で、信徒全員が教会運営に関わっていくやり方です。
 ようは、監督制というのは、教会の中心にいる人間が他を従えるやり方であり、世俗の王が教会の最高権威でもある国教会にとっては、「王が教会運営を自由にできる制度だ」という事ができるわけです。
 監督制、長老制というとややこしいですが、簡単に言えば、チャールズ一世はスコットランドの教会に対して「俺の言う事に従え」といい、スコットランドの教会がそれを拒否した、という事です。

 この戦争(反乱)を主教戦争と呼びます。

 二回に渡って戦われたこの戦いは、二度ともスコットランド側の勝利に終わります。
 この戦争によって、王の権威が失墜したのはもちろんですが、それ以上に、国庫へのダメージが深刻でした。
 囲い込みからはじまったイングランドの産業構造の変化で、ただでさえ国庫は空っぽです。更に、議会の承認なく課税できないという縛りがチャールズ一世を締め付けます。うるさい議会など解散してしまったチャールズ一世ですが、では実力行使して税金を搾り取れるかというと、それができるくらいならスコットランドなどに負けてはいないわけで、金を手にいれるためにはどうしても議会を開かなくてはいけません。そして、その上で、税金を承認してもらわなくてはならないのです。

 そんな折、今度はアイルランドで戦争(反乱)が起こります。
 スコットランドとの主教戦争にイングランドが破れたのを好機と考えたのでしょう。アイルランド・カトリック戦争です。