◆ 業界システムが成立するまで
以上説明した業界の仕組みですが、実際にこのような形になったのは、比較的最近の話です。私が会社にいたのは90年代前半ですが、その頃だとまだゲーム会社は単にゲーム会社であるのがふつうでした。大手も中小も、社内開発ラインによって作ったソフトを自社ブランドで発売するのが一般的だったのです。また、当時は外部の開発会社との関わりも薄く、プロジェクトのほとんどは社内ラインで作っていました。
ゲームというのは、直接的にはクリエイター個人の創作によって作られます。特にゲームの技術というのは近年まで標準化されていず(特にプログラミングの場合、実際の創作はプログラマの脳内で行なわれているという点に注意が必要です)、各自が自分なりのスタイルを発見していくか、あるいは"師匠"の下でみっちり仕込んでもらうかしかありませんでした。そこで当時の人材システムでは、既に仕事としてゲームを作っている玄人を招いてその人なりのやり方でチームを率いてもらうか、「ある程度できる素人」を採用して社内で一人前に育て上げるという方法が、一般的だったのです。
外注がしづらい事情も、これと同じです。作り方が会社ごとにまちまちでは、部分的に担当してもらうということは、開発スタイルを共有する系列会社ででもない限り無理でした。また、使える人材が各社ごとに囲い込まれている状態では、受注できる会社というのは完成した開発能力を持つ会社に限られるため、開発の選択肢を多様化させる要因にはなれなかったのです。
それが、こんにちのようなシステムになっていったのは、プラットフォームの転換によるものです。
スーパーファミコンからプレイステーションに移る際、二つの点で大きな変化がもたらされました。まずメディア容量が大きくなり、ボイスやムービーが事実上の必須になってしまったということ。そして、ゲームの作り方も、それまでのスプライトアニメーションを中心とした2Dからポリゴンを使った3Dという新技術に移行したということです。
グラフィックスやサウンドなど、多人数が長期間専念しないと作れないわけですが、こうなると、全てを社内でまかなうのでは、人数ばかりが増えてしまいます。また、それまでとは全く異なった技術は、従来の社内ヒエラルキーに深刻な問題をもたらしました(つまりは、上役や先輩が、技術的にも優位とはいえなくなったということです)。
これらは少なからぬ混乱をもたらしたわけですが、業界全体としては変化に対応、その結果として今日の姿があるのだと言えます。
現実には、プラットフォームのメーカーがソニーに変わったことが、大きかったと言えます。任天堂はクローズドパーティー志向が強かったのですが、ソニーは対照的に技術情報の公開に積極的でした。また、『ネットやろうぜ』などに見られるように新人の育成発掘にも力を入れるなど、"新時代"のムードを盛り上げるのが上手でした。一方で、グラフィックスなどの面での変化は、ゲームならではの独自のノウハウが開発に占める比率を格段に下げることにもなり、人材市場のオープン化という点で相乗効果を発揮していったのです。*5
実際には、一夜にして変わったわけではありません。様々なレベルでの混乱が続き、気がついたら現在のようになっていたという感じです。また、現状が安定しているというわけでもないのですが、もたらされた多様化自体は今後も続いていくものと思われます。