爽やかで羨ましくてなんて悲しい二人の物語なんだ。

二人の悲しい運命の入り口までのストーリーは明るい光に照らし出されて深い友情に繋がれた二人の少女の弾ける様な青春讃歌の様で私は微笑ましい思いで眺めていた。


そんな彼女たちの友情という言葉では表しきれない深まっていくお互いへの想いはなんと表現したら良い?

友情と愛情の境はどこにある?

そしてたとえ互いに愛し合っている二人であってもありのままの相手をそのまま受け入れることのなぜそんなに難しいのだろう。

愛する人に自己の価値観に寄りそってもらいたいという思いは愛しているからこそかもしれないが押しつけと束縛が現れてしまう。

ただ自分とは違うから惹かれ合うのは多分事実。だから自分の価値観に寄り添って欲しいという思いの向こうには自分にはない魅力を持つ相手のように自分がなりたいという欲求に溢れかえるのも愛情か。


深く愛するミソの生き方に憧れミソのように行きたいと願っていながらどこか常識的で穏やかな生き方を選んでしまってはみ出して生きてはいけないハウンが死してやっと自己の解放が可能になりその魂はミソの様に自由に飛び回る事ができた。

そして今まで以上にミソを知る事ができたのかもしれない。


子供の頃にハウンがミソが描いた猫の絵を見て「心も絵に描くことができる」と気がつくところはとても印象深い。

ハウンがミソを本当に好きななった、あるいは憧れて愛を感じ始めたのはここからなのではないかと思った。


もうひとつハウンの彼氏にハウンのどこが好きなのかと問われたミソは「全部」なんて答えるのは相手のことを全然わかっていない。自分が好きなのはハウンの「振り向いた時の横顔、笑った時の2本の前歯」などなどと答えるところ、そのミソの愛情表現にハッとするところがあった。