黒島のアダンの木

 

半ば子供の脳を持った大人衆と

半ば大人の脳を持った子供衆と

そういう私自身のために。

(開高健『もっと遠く!』序文より)

 

1. 発端ー前前夜-前夜

2/11(火)の夜、出張先で装置の最終出荷チェックが終わり、寒さに震えながらヘトヘトになって深夜帰宅した時にそれは起こった。

TVを点けようとリモコンを持ったが、手の中のリモコンの使い方が解らない。それがリモコンだと言う認識も出来ない。

10年以上毎日のように使っている、ごく普通のTVリモコンなのに。

頭の中が真っ白でパニック状態に陥った。頭に浮かぶのは出荷チェックリストのことばかり。手が震える。リモコンを持ったままむやみに家の中を歩き回った。

 

5分ほどで手に握っているのはリモコンだと判り、次いでその操作方法を思い出したが、これは過労による鬱病の初期症状だろう(同様の症状で入院した人を知ってる)。

強ストレス下で過集中状態を何十日も続けた結果、適切な情報を適切な順序で脳から取り出せなくなったのだと思われる。

週末に代休取得を決意する。今、倒れるわけにはいかない。これからなのに。

 

怒濤の2/12(水)、2/13(木)が過ぎた。正直筆舌に尽くし難い目にあったが、そこはあえて書かない。大人だから。仕事だから。あの人なら軽く「そんなもんさ」と受け流すだろうから。

だが自分は「大人になりそこなった子供」である。

我慢ならぬものには我慢ならぬのである。

 

何故かは解らない。

2/13(木)の夜、布団の中でふと、沖縄の離島である八重山諸島に一人で行こうと思い立つ。

電話もネットもつながらない所に行こう。

何も無い所に行こう。

仕事を完全に忘れられる所に行こう。

流行りのネットデトックスに行こう。

その勢いのまま、スマートフォンで飛行機を即座に予約。最安は成田空港発のLCCだった。

 

Webで八重山ガイドを見て最も情報の少ない「黒島」に目星を付ける。人口より牛が多いそうだ。

まあ八重山はちょっと田舎に行けばどのシマも本当に何も無いので、最後はいきあたりばったりで船と宿を見つけよう。

そういや、二十数年前の八重山への新婚旅行もそうだった。

 

深夜まで妻にも手伝ってもらい荷造りを行う。

 

2.出発

翌、2/14(金) 朝。品川から成田空港へスカイライナーで行こうとしたところ人身事故で電車が止まっている。

駅員に尋ねたが、再開見込みは立っていないとのこと。

またパニック発作が起こりそうになったが、深呼吸をして代替ルートを探す。

品川からは成田エクスプレスが出ているじゃないか。

素晴らしい品川! さすが世界の中心品川!

 

程なく成田エクスプレスに乗車。後ろの座席には中国語話者が座っており時々咳込んでいる。正直怖い(新型コロナウィルスによる武漢ロックダウンの直後だった)。

車窓を眺めて気を落ち着けようとするが、まだ頭の中はぐちゃぐちゃだ。

ひっきりなしに電源ケーブルやら装置配置やらのことが浮かんで来る。

 

成田エクスプレスはスムーズに空港第二ビルに到着したが、LCCは第三ターミナルから発着する。

第二ビルから第三ターミナルは650m。遠いよ。ひたすら歩く。寒い。

 

チェックインカウンターで前の中国語話者が10分以上トラブっている。釣竿ケースが長すぎるようだ。

すったもんだした結果、ケース先端を折り曲げて収めていた……ダイナミック解決法。

ようやく自分の番が来たので手続きを行う。受付係の方に「機械でもできますよ」と後ろを示されたが

「いいえ。私は機械を信用できません。人間のあなたにやって欲しい」と手動チェックインを行ってもらった。

エンジニアだからこそ機械を信用しない。人間は未だ最高の処理システムである。

予約したのが聞いたこともないチェコの旅行代理店だったので心配だったがスムーズに手続きが出来た(帰りの便でその優秀さを痛感した)。

 

手荷物検査通過後、出発ロビーへ。

早速金曜日の真っ昼間からビールで独り酒盛りを始める。

成田空港第三ターミナルでのビール

成田空港第三ターミナルにて

 

LCCの機内はごった返している。卒業旅行風の大学生が目立つ。そしてマスク着用率の高さが凄い。ほぼ8割だろうか。キャビンアテンダントに至ってはサージカルマスクに無菌手袋状態である。

そして咳き込む中国語話者が其処ここに。怖い。感染者と半径2mで30分居ると濃厚接触者とのこと。為す術も無い。

 

離陸後飛行機はジェットコースターのように揺れた。大きなエアポケットに入った時には

「キャー」という悲鳴があちこちで起こる。幼児はギャン泣きである。

 

乱流層を抜け飛行が安定した後に「バッタを倒しにアフリカへ」(前野ウルド浩太郎 著)を読む。

バッタのコスプレをし顔を緑に塗った男のフザケた表紙の本で、正直芸人の本かと思って積んでいた。

これが素晴らしかった。久々に魂が揺さぶられる読書体験だった。

 

バッタを倒しにアフリカへ

バッタを倒しにアフリカへ

(前野ウルド浩太郎 著)

 

モーリタニアでの単身生活がどれほど大変なことなのか。

ウルドにそんな意味が有ったのか。

サバクトビバッタはそれほど酷い害虫なのか。

ポスドクはそんなに儚い存在なのか。

そして彼は夢をつかめるのか。

 

文章は正直それほど上手くはない、いわゆる若書きだが、それを超える圧倒的アフリカのリアルがそこに有った。

飛行時間の半分は身を震わせて涙を流していた。周りの人が心配そうに見てくるがおかまい無しに泣きながら読み続けた。

そして自分の精神状態がいかに危機的状態であることを自覚した。

承認欲求と言えば軽いが「作った製品を、仕事を理解してほしい」と言うエンジニアにとっての不治の病である。 彼の本は自分の魂がいかに飢えているかを気づかせてくれた。

動いて当たり前の装置(モノ)である。誰も製作者の呻きと叫びなぞ聞きたくないのである。

 

人間の心は骨と一緒で折れるときには簡単にポキッっと折れる。

自分の経験上折れると治りは遅い。

折れる前に心にかかっている応力を逃がさなくてはいけないのである。

涙でストレス物質は流れるとのこと。大いに泣く。

 

3.八重山へ

 

飛行機が高度を下げると機内が妙に暑くなってきた。窓の外はもう暗い。

難なく、南ぬ島(ぱいぬしま)石垣空港に着陸した。

直ぐにタクシーに乗って離島ターミナルそばのホテルにチェックイン。

タクシーの親父さんもマスク手袋着用である。沖縄では既にクルーズ船から降りた乗客から感染が始まっている。

社内のラジオからは札幌雪祭りに行った石垣島の人々の声が響いている。

 

ホテルはシンプルなコンドミニアムタイプ。ツィンベッドルーム、シャワー、台所付で5,500円。安い。八重山価格か。

外装は沖縄によくあるコンクリ打ちっぱなしの懐かしい建物だ。

 

部屋に入るがマジで蒸し暑い。内地の6月頃の気温だ。速攻で窓を全開にし、シャワーを浴びる。

腹を満たすために、街に繰り出し適当な居酒屋へ。刺し身盛り合わせとホルモン+にんにく+唐辛子をガッツリ乗っけた鉄板焼きが美味い。

 

石垣島の居酒屋にて

 

うっちん茶だけでアルコールは摂取しない。明日に備える。

船酔いが怖いのだ。

しかしぶらっと入った居酒屋にも中国語話者が居て、時々咳込んでいる。これは日本はもう駄目かもしれない。

 

ホテルに戻り、荷物を開梱する。着替えの隙間に高価そうなチョコレートが入っていた。

今日はSt. Valentine Dayであった。妻の心配りがありがたい。

窓から外を見ると石垣市の夜景が見える。蒸し暑い風が吹き込んでくる。

 

ホテルの窓より石垣島夜景

 

前野ウルド浩太郎に思いを馳せて寝る。

 

(八重山旅行記 20200215_01に続く)