『ナショナル・ジオグラフィック』の創刊号の94ページの中には、5つの記事が掲載されていた。まず、初めに、全米地理協会の紹介があり、それに加えて、その規約、ノルマ、入会の手続きを述べ、会員の一覧表もあった。

 掲載されていた多くの記事は長く、イラストがほとんどなく、それに、文章の帆ほとんどが専門家のみがわかるような言葉で書かれていた。その中の一つが地質学的な調査における地理学的な分析で、16ページも使って書かれていた。また、他の8ページは「創世記による地理学の形態的分類」というタイトルだった。

 そのような創刊号で最も読みやすい記事はおそらく「1888年3月11~14日の大きな暴風雨」だったかもしれない。その暴風雨は現在でも、“グレート・ブリザード・オブ・1888”として知られているアメリカ北西部中を襲ったもので、記事は「そのとき、凍るような寒い温度で、強風が吹き、4日間で40インチも雪が積もった」と解説した。

 創刊号の7か月後の1889年4月に、『ナショナル・ジオグラフィック』の第2号が発行された。創刊号からの続きのページもあったが、メインの記事は「アフリカ、その歴史と未来」で、この記事はガーディナー・ヒューバードによって書かれていた。視覚的に見て、文章の量が目に付き、イラストはほとんどなく、非常に創刊号に似ていた。

 次に発行された1889年6月の第3号はアメリカの州についてのレポートで、連載による最初の記事で、「ペンシルベニア州の川と谷」という内容だった。

 1889年10月の第4号は初めて、いくつかのイラストとパステル・カラーの地図が入っていた記事で、「ニカラガへの旅行と鉈」というタイトルだった。この記事の作者は最初の北極圏到達探検を導いた若い海軍のエンジニアのロバート・ピーリーであった。

 そして、1891年には、全米地理協会が最初に行った探検・冒険と考えられたレポートを載せた。その記事は「セント・イーリアス山への探検レポート」というタイトルであった。また、マウント・ローガンや巨大な氷河を探検しながら、アラスカとカナダの国境の最も高い地点まで到達した10人の探検隊の様子を語ったものもあった。それは、『ナショナル・ジオグラフィック』が世界の目撃者という役割を演じた最初の例として認められた。おそらく、それが将来における雑誌の成功の重要な要素の一つになったのだろう。

 その後、『ナショナル・ジオグラフィック』が実施した探検は全米地理協会とアメリカ地質学調査の支援で行われることになったが、全米地理協会は、“この最初の探検はその後何十年間も続く探検や調査におけるルールを作り出した。それは自然の力に打ち勝ち、世界についての人々の知識を増大させた。そして、全米地理協会とアメリカ合衆国政府の関係者の間で、緊密な連携を図るという伝説を確立した”と述べたのである。