独立戦争で即時召集に備えて待機していた民兵
レキシントンとコンコードで戦った緊急招集兵たちは作り話による武装した暴徒ではなく、よく訓練された市民軍だった。
17世紀の初めごろから、マサチューセッツのすべての町は自衛のための部隊が存在した。軍務はほぼすべての健康で、丈夫な男たちにとって、義務的なもので、その中のいく人かは24時間警戒態勢を担った。
例えば、ロックスベリーは「市民軍の四分の一は緊急事態に対応できる即時の戦闘準備ができている」と宣言していたのである。それでも、民兵たちが緊急招集を受けたとき、正式な軍服もなかったし、訓練マニュアルもなかったが、その多くは射撃の名人たちだったし、フレンチ・アンド・インディアン戦争に参加した人もいた。
さらに、16歳~66歳までの民兵たちは長時間の訓練を受けていて、緊急招集兵と正規の民兵を含めて、1775年までに、ほぼ1万4000人の兵士を組織していて、それゆえ、4月19日に、「英国軍が進軍してきたが、植民地は準備できていた」という言葉が生まれた。
彼らは現在ついている仕事から離れ、農民たちは耕地を残し、職人たちは道具を家に置き、そして、マスカット銃を手にして、レキシントンとコンコードの戦場に向かったのである。
独立への道
独立戦争におけるドラマティックな事件と軍事的な衝突がアメリカ合衆国の出現に貢献したのである。主な事件を挙げてみる。
1775年
ポール・リヴェアが英国軍の進軍を植民地住民たち知らせるために、4月18~19日の夜に、レキシントンに馬で駆けつけた。
1775年
第2回大陸会議が6月15日に開かれ、ヴァージニア民兵軍司令官ジョージ・ワシントンをアメリカ軍総司令官に任命した。
1776年
12月26日~1777年1月3日に、アメリカ軍はトレントンとプリンストンで、ニュージャージー南部から英国軍を追い払った。
1777年
9月19日~10月17日に、アメリカ軍がニューヨークのサラトガで勝利を得る。そして、英国軍に降伏を促した。
1779年
2月25日に、インディアナのヴィンセンスでのアメリカ軍の勝利は西部諸州地域でのアメリカの権利を確実にした。
1781年
3月15日に、ノースカロライナのギルフォードで、英国に対する勝利を得た。チャールズ・コンウォリス将軍に率いられた英国軍はヴァージニア北部に移された。さらに、9月28日~10月19日まで、アメリカ軍とフランス軍がヴァージニアのヨークタウン要塞を包囲攻撃し、英国軍に対して、8000人の兵士たちを囚人として、降伏するように交渉を行った。
1783年
パリ条約が署名され、アメリカ独立戦争が終了した。