レキシントンの戦いが導火線

 誰が、銃声が聞こえたかと叫んだのかは誰も知らない。しかし、マサチューセッツのレキシントンの戦いが導火線となり、独立戦争が始まった。

 植民地住民たちがコンコード近くの英国軍の火薬貯蔵庫を襲撃するために、英国軍の行動に対する警戒態勢を取る必要があった。そのため、ほぼ130名の植民地住民たちが1775年4月19日の夜明け前にレキシントンの緑地に集まって来た。

 しかし、そこに運悪く、英国軍のジョン・ピットカーン少佐が率いる緋色の軍服を着た兵士たちが巡視してきた。銃剣を携えた植民地住民たちは慌てて、朝の寒さを避けるために家に戻るか、近くの居酒屋に逃げ込むかどちらかのようだった。

 ピットカーンは「武器を捨てろ、お前たちも、反逆者たちも。そして、散れ!」と繰り返し叫んだ。その声に、留まっていた住民たちはゆっくりと立ち去り始めたが、彼らはマスカット銃を手放さなかった。

 そのとき、突然、銃声が響き渡った。それがどうなるか誰にも分からなかった。ピットカーンの馬は傷つき、一人の兵士もひどい傷を負った。それでも、英国軍の被害者はそれがたった一人だった。ピットカーンの止め!という命令を無視して、英国軍兵士たちは群衆に向かって、次から次へと一斉射撃をし始めた。

 その紛争について、住民たちは、「英国軍の一人の兵士が発砲した」と言い張った。それに対して、ピットカーンは、「壁の後ろにいた田舎者の手に銃をはっきり見た。発砲したのは植民地住民だった」と主張した。

 最終的に、英国軍指揮官ピットカーンは兵士たちに発砲をやめさせたが、植民地住民側に損害が生じ、8人が死に、10人が負傷したのである。それでも、ピットカーンはコンコードの兵器庫に向かって軍を進めた。

 このレキシントンの戦いを分析して、愛国者たちは急いで英国軍の残虐行為を各植民地に知らせ、英国軍との抗戦を叫んだ。そして、抗戦を支持する人々を集めながら、独立戦争へと突き進んで行ったのである。