ロングフェローが書いた伝説

 ポール・リヴェアがレキシントンとコンコードへ馬にまたがり、危急を告げたことはロングフェローの詩によって有名になったが、彼が独立戦争の時代に、四方八方駆け巡ったものほど重要なものはなかったと言われている。

 ボストンの銀細工師で愛国者のポール・リヴェアはボストン・ティー・パーティ事件のニュースをニューヨークやフィラデルフィアの仲間たちに伝えるのを頼まれた。このとき、彼は10日間の行程で成し遂げたが、“気象はこの季節で最も厳しいものだった”と評論家は書き残している。それでも、彼はニューイングランド地方の少なくとも4か所以上を訪問した。

 このように、彼は独立戦争時代にボストンにおける活動的でエネルギッシュな人物であったが、結果的に、漠然として結成された反英国運動を系統立てるのに尽力した。

 それだけでなく、彼はまたアメリカ軍の火薬製造のための製造所、植民地共通貨幣を印刷するための印刷所、革命のプロパガンダとして使用するための絵入りの印刷物の製作のようなことも請け負った。例えば、「ボストン大虐殺」のプリントは各植民地における反英国感情を高めることに役立ったのである。

 彼を最も有名した真夜中の疾走は「ボストン川を渡ってチャールズタウンまで」というワーズワース・ロングフェローの詩によって、ほぼ100年後に不朽の名声を与えられることになった。

 ポール・リヴェアは予期された英国軍兵士進軍の知らせを待っていた。すると、ほぼ午後11時に、ボストン・オールド・チャーチの鐘楼で二つのランタンが灯された。それが合図だった。

 それは英国軍がレキシントンとコンコードに向かって、ボートで出陣したことを示すもので、彼は孤独な伝説への道を全速力で駆けだしたと伝えられた。

 しかし、実際は、リヴェアはたった一人で、馬で駆けだしたのではなく、もう一人の通信使ウィリアム・ドーズもまたレキシントンへ向かった。そして、リヴェアの少し後に到着した。

 さらに、二人はレキシントンで、医者のサミュエル・プレスコットと落ち合い、そして、三人でコンコードに向かって急いだ。しかし、運悪く、途中で、彼らは英国軍のパトロールに遭遇した。

 素早いドーズは背を向けて逃げたが、リヴェアは尋問に捕まってしまった。そして、プレスコットだけが英国軍がやってくることをコンコードの市民軍に警告するために全速力で駆け抜けたのである。