The die is cast. 

 サミュエル・アダムズの合図で、モホーク族の恰好をした数十人がボストン・ハーバーに大きなティーポットをひっくり返したのが、「ボストン・ティー・パーティ」事件である。

 著名なボストンの商人で、茶積み船の持主であるフラレンス・ロッチは1773年12月16日に、ボストンのオールド・サウス・ミーティング・ハウスにやって来た。

ロッチは二度も彼の貨物船が茶を積み下ろさず、英国に戻るための許可を総督に求めた。それに対して、総督は二度とも許可しないと返答した。

 彼がもし命令に従ってボストンで茶を積み下ろせば、怒っている植民地住民たちから報復を受けるだろう。あるいは、もし命令に従わず積み荷を降ろすことなしに、港を離れようとしたら、反逆罪で告発されるかもしれない。どちらをとっても、ロッチは損害を受ける立場だったのである。彼のすべての困難の原因は1773年の茶条令によるものだった。

 英国議会は数年前に、植民地における英国輸入品ボイコットに対して、茶に対する税金を除いてすべての商品について輸入税を撤回した。

 その後、特定の植民地の商人たちに、茶販売について専売権を与えたのである。これは植民地の関税に対する干渉というものだった。

 これに対して、扇動者や愛国者たちはオールド・サウス・ミーティング・ハウスに集まり、再び植民地住民たちに公然たる反英意識を燃え上がらせようとした。

 集まりの首謀者のサミュエル・アダムズは「この会合は、人数は少ないが、国を救うためにできることがある」と述べ、それから、モホーク族のように変装して、ボストン・ハーバーに繰り出した。

 そして、港に停泊している船に乗り移り、ほぼ1万ポンドと見積もられる342の茶の小箱をひっくり返して、海中に落とした。その状況を沿岸で見ていた数千人のボストン住民は拍手喝采を送った。

 この事件を知った英国議会は報復として非常に厳しい懲罰的な政策を可決し、英国国王もボストン・ハーバーを閉鎖するように命じた。それらはマサチューセッツの自治権を制限し、事実上、占領軍を創設しながら、植民地に英国軍兵士の宿泊所を提供することであった。

 そして、国王は「The die is now cast.(さいは今投げられた)。植民地住民たちは服従するか、勝ち誇るか、どちらかを選ばなければならない」と書き残した。

 国王はその言葉が何を予期するのか全くわからなかったのかもしれない。しかし、アメリカ独立戦争はもうすぐそこまで来ていたのである。

 

ジョン・アダムズの日記

 後に第二代アメリカ大統領になるジョン・アダムズは「ボストン・ティー・パーティ」事件を聞いたとき、心が躍った。そして、彼は、「昨夜、茶の積み荷が海に投げ込まれ空になった。これは最高の素晴らしい行動だ。私が非常に敬服する愛国者たちの努力には、気高さ、威厳、そして、高尚さがある。この茶の破壊行為は非常に大胆で、しかも、勇気がある。その行動は断固としていて、恐れを知らない行為である。さらに、不屈の闘志が感じさせられる。そのため、重大な結果をもたらせなければならない。そして、永続的でなければならない。さらに、その行動は歴史の中に新時代を開くだけではなく、もしかしたら、同じような一般民衆の力の行使が生命の破壊を生みだすかもしれない。ということは、多くの人々は数箱の茶が浮いているのと同じように、ボストン・ハーバーに英国軍兵士の死体が浮いていればいいと考えるかもしれない」と書きしるしている。