ロードアイランドの反英運動

 英国船ガスピー号がロードアイランドの沿岸で座礁したとき、植民地住民たちの怒りは爆発し、船を焼き討ちしてしまった。

 その当時、ガスピー号は植民地の関税法違反行為を探索しながら、ロードアイランド沿岸における広範囲にわたる密輸入の取り締まりを強化していた。船長は沿岸地域をパトロールしながら、行き来するほぼすべての船を臨検していたのだ。

 他方で、ガスピー号の船員たちはロードアイランド沿岸地域のマトン、ポーク、チキンという農業産物に対して侮辱的な言葉で罵っていた。そのような傲慢なやり方は植民地住民たちにとって正しく理解されなかったどころか、彼らは沿岸の農場で略奪さえもしていたのである。

 1772年6月9日に、ロードアイランドの住民たちに怒りが爆発させる機会がやって来た。ガスピー号がロードアイランド沿岸地域でパトロールをしていたとき、プロビデンスの7マイル南にあるウォリックの砂州で座礁した。

 その知らせは素早く広がり、その夜に、ほぼ150人の住民たちが座礁して、立ち往生しているガスピー号に向かってボートを漕ぎだした。そして、砂州のあちこちに群がりながら、船に近づき、焼き払った。

 英国議会はガスピー号焼き討ち事件を問題にし、英国で裁判にかけようとした。そして、公然と秩序を乱している住民たち捕らえることに決定した。これに対して、住民たちは自身が仲間の陪審員たちによって裁かれることを条件とし、さらに、他のすべての英国人と同等な権利を与えるように主張した。

 そのような状況で、英国が事件の証言を収集し、住民たちに事件の目撃について聞き始めたとき、誰も事件の詳細を思いださなかったし、証拠も集まらず、審議にかけることができなかった。結果として、ガスピー号焼き討ち事件に参加した住民はいなかったことで、裁判を開くことができなかったのだ。

 このガスピー号焼き討ち事件はロードアイランド人の誇示運動を注目させただけでなく、各植民地住民たちは勇気づけられ、さらに、扇動者たちや愛国者たちは英国統治に反抗する仲間を助けるために、各植民地を通じた「通信連絡委員会」を設置した。

 この「通信連絡委員会」はその後数か月間に、各植民地がアメリカ独立戦争に向かって連携することについて、非常に重要な役割を演じていくのである。