ジョージ・ワシントンはもし独立戦争が始まらなかったとしたら、農場経営の仕事で革命的な仕事をしていたかもしれない。

 ジョージ・ワシントンはポトマック川の畔にあるマウント・ヴァーノンという農園の大農園主で、農業生産活動に力を注いでいだけでなく、彼の農業における経営方針はその当時としたら非常に際立っていた。

 その当時の大農園では、タバコが主要生産物で、ワシントンは南部の主要生産物であるタバコ栽培が土壌をダメにしていると知り、タバコは絶対に育てるべきではないと考えた。まして、タバコ栽培は奴隷労働者たちを従事させることや多額の費用が必要だったことも悩みの種だったのである。

 そこで、ワシントンは農業生産を改善しようと考え、タバコの代わりに、コムギやトウモロコシを栽培することに焦点をあて、さらに、麻や亜麻のような非食品も試し、それらを作り出すよりよい方法を考案しようとしていた。

 しかし、英国からの農業生産マニュアルは少しも役に立たず、しかも、土壌や気候風土における違いが英国の農業技術を手本にできなかった。そこで、まず、土壌の改良を試しながら、収穫高の増大を目指した。

 ところが、ワシントンが農業生産活動に専念しているときに、各地で反英国抵抗運動が高まり始め、彼は農園を守るために、軍隊の指揮に似せて、まず、自身の農園の労働者、管理人たちを組織し、さらに、その他の農園の地主や経営者たちと労働者たちを組織して、ヴァージニア民兵軍を創設した。

 そのような状況で、1775年4月に、ボストン近郊で独立戦争の火ぶたが切られると、ヴァージニア民兵軍の司令官になっていたワシントンはフィラデルフィアで開かれた各植民地代表による大陸会議で、独立革命軍の総司令官に選ばれた。彼は尽力していた農業生産活動を中断せざるを得なくなった。

 ワシントンはいつしか故郷に帰り、農業生産活動に従事したいと願っていたので、1783年に、独立戦争が終わると、総司令官としての任務を返還して、やっとのことで、マウント・ヴァ―ノンに戻って来て。そして、農園主の生活に復帰したのである。

 それでも、憲法制定会議が始まると、呼び出され、議長に選出され、さらに、その憲法のもとで、初代大統領に選出されてしまったのである。

 ワシントンはマウント・ヴァ―ノンを離れて、農園主の生活から、大統領という公的な生活を始めなければならなかった。そして、大統領を二期務め、周囲の推薦を拒否して、三選を辞退し、1796年に、「告別演説」を行い、マウント・ヴァ―ノンに戻っていたのである。