アメリカ独立戦争のスローガン

 1763年に、英国議会で可決された「印紙条令」がアメリカ植民地を抵抗の嵐を吹き上げさせることにつながった。

 印紙条令は英国議会にとっては、公正で、賢明な措置であると考えられた。しかし、植民地を守るためという名目だけの税金取り立てだった。というのは、印紙条令は、「新聞、広告、パンフレット、トランプを含めて、すべての法律や通商に関する書類はどこでも、半ペニーから10ポンドの納税印紙を負担する」と命じていたからだ。

 これに対して、植民地住民たちは、「英国政府は議会で公正な代議権を与えることなしに、なんで税金をかけるのか?」と憤慨した。この反動は迅速で、厳しかった。

 “代議権なければ納税の義務なし” No taxation without representation. この言葉はその後のアメリカ独立戦争のスローガンになった。パトリック・ヘンリーは植民地時代のヴァージニアで、このスローガンを駆使して、印紙条令を公然と非難した。しかし、これは怒り狂った英国支持者たちから反逆罪の請求を招くことになった。

 その当時、ヴァージニアでは、パトリック・ヘンリーの他、トマス・ジェファーソンやリチャード・リーなどが「通信連絡委員会」を設立していた。そして、他の十二の植民地と連携して、英国への反対運動を計画していたのである。そのような状況で、「自由の息子たち」として知られる急進的なグループが植民地中で組織された。

 ヘンリーは仲間の愛国者たちに、「もしこれが反逆罪ならば、罪に落とせ」と叫び続け、そして、植民地の不満を要約した「七つの決議案」を提案したのである。ヘンリーの決議案は印刷され、各植民地に送られた。

 その中には、「植民地住民たちにも英国人たちが享受しているものと同じ自由を与えてくれ」というものがあったが、特に、”代議権なければ納税の義務なし”」というスローガンが最も住民たちの心に響き渡った。そして、それが各植民地で反英国抗議の爆風を吹き上がらせることになるのである。

 ボストンでは、急進的なグループが地元の印紙販売業者の人形を作って燃やしただけでなく、その家で略奪し、その後、副総督のトマス・ハッチンソンの家も破壊した。同じような暴動がニューヨーク、デラウェア、ノースカロライナでも爆発した。

 印紙条令の結果、植民地住民たちは植民地間の集会(大陸会議)を組織することになり、ジョージアを除く、12州の代表者たちが1765年10月に、印紙条令会議を開催した。 そして、大陸会議はすべての植民地住民たちに英国からの輸入品をボイコットするように呼びかけた。

 英国議会は最終的にその失敗を認め、そして、発効から6か月後に印紙条令は撤回されたのである。各植民地の新聞は「英国の愚行とアメリカの荒廃」というキャッチフレーズの記事を掲載した。

 その当時、アメリカ植民地には、およそ600の新聞が発行されていたが、特に、ベンジャミン・フランクリンの『ペンシルヴァニア・ガゼット』やジョン・ジルの『ボストン・ガゼット』のような新聞がこうした「アメリカの反乱」を大々的に広めたのである。