楊貴妃観音

 扇ガ谷上杉氏の屋敷跡から道なりに50mほど進み、丁字路を右に100mほど行くと、左側に真言宗の浄光明寺がある。元、英勝寺にあった山門をくぐると、左側に楊貴妃観音、正面に客殿と庫裏があり、右側に不動堂がある。

 この寺は文覚が源頼朝の依頼で建てた寺が前身と伝えられ、その後、建長三年(1251)ごろに、鎌倉幕府第五代執権北条時頼や第六代執権北条長時が真聖国師真阿を開山に迎えて創建したという。

 その後、元弘三年(1333)に、後醍醐天皇の子成良親王の祈願所になったり、建武三年(1335)、足利尊氏が閉じこもったりした寺で、室町時代には、鎌倉公方の保護を受けて、栄えたという。

 客殿には、元寇の際に、元の降伏を祈ったともいう木像の愛染明王像が祀られていて、不動堂には、文覚が安置したという木造の不動明王像(八坂不動ともいう)がある。

 境内には、石造の「楊貴妃観音」が祀られている。楊貴妃は中国の唐の時代の玄宗皇帝の妃だったが、「安史の乱」で殺害され、玄宗皇帝が妃の姿を観音像に造らせた。500年後の、湛海律師がそれを日本に持ち帰って、京都の泉涌寺に納め、「楊貴妃観音」としてきた。

 平成十三年(2001)に、これを石に刻んだ像が造られ、泉涌寺の末寺である浄光明寺に送られ、参拝者の信仰を集めてきた。

 境内の奥に進むと、石段の上に、頼朝が建てた永福寺(ようふくじ)から移されたと伝えられる本堂がある。中には、阿弥陀・釈迦・弥勒の過去・現在・未来を表す三世仏が安置されている。

 本堂の横にある収蔵庫には、本尊の阿弥陀三尊像と地蔵菩薩像(矢拾い地蔵とも言う)が安置されていて、阿弥陀三蔵像には、粘土を貼り付けた「土紋(どもん)」という模様があることで知られている。

 本堂の裏山の道を上ると、やぐらがあり、やぐらの中には正和二年(1313)と刻まれている石造の地蔵(網引地蔵)があり、地蔵の少し上に、石垣で囲まれた石造りの「冷泉為相の墓」の宝篋印塔がある。

 冷泉為相(れいぜいためすけ)は藤原定家の孫で、冷泉家の祖となった人である。異母兄の為氏と領地のことで争いになり、母の阿仏尼が鎌倉幕府第八代執権北条時宗に訴えるために、京都から鎌倉にやって来た。その時の紀行文が『十六夜日記』で、為相も母を追って鎌倉に来て、この近くの藤ケ谷に住んだという。

 浄光明寺は現在、北条氏の氏寺として、国の史跡になっている。