関東管領

 英勝寺の前の踏切を渡り、左へ20メートルほど行くと、道の右側に、「扇谷上杉管領屋敷迹」の史蹟指導評が立っている。

 この辺りは「管領屋敷」と言われていて、室町時代に山内上杉氏(やまのうちうえすぎし)と並び、南関東に勢力を持った扇谷上杉氏(おおぎがやつうえすぎし)の屋敷跡と伝えられる。

 扇谷上杉氏は山内上杉氏とともに、代々管領職を継いだ家で、六代の定正のころ、太田道灌が重臣として大いに栄えた。しかし、天文十五年(1546)に、小田原の北条氏(後北条氏)との戦いに敗れて、滅んだ。

 室町時代に、幕府は地方の力を抑えるために、鎌倉に役所を置き、関東地方と伊豆・甲斐(後には、陸奥・出羽)を支配する場所を鎌倉府(関東府)と呼んだ。その長である鎌倉公方を助けて仕事をする人が執事で、後に、関東管領と呼ばれたのである。