お勝の局

 寿福寺からさらに北上すると、左側に英勝寺が建っている。英勝寺は浄土宗の寺で、鎌倉に残る唯一の尼寺である。寛永十三年(1630)に創建された英勝寺の寺域は太田道灌の屋敷跡と伝えられ、「太田道灌邸舊蹟」という史蹟指導評が立っている。

 この石碑には、太田道灌やお勝の局についての説明が刻まれている。

太田道灌は永享四年(1432)に、鎌倉公方を補佐する関東管領上杉氏の一族である扇ガ谷上杉家の家宰を務める太田資清の子として生まれた。鎌倉五山で学問を修め、足利学校でも学び、文安三年(1446)に元服して、資長を名乗った。資長の主君の扇ガ谷家は山内上杉家を支える分家的な存在であった。

 康正二年(1456)に、家督を譲られ、以後、扇ガ谷家二代にわたって補佐した。そのとき、川越城や江戸城を築城したと伝えられる。さらに、道灌は戦国時代の関東では珍しい歌人で、文武両道に優れていたので、いろいろな伝説が残っている。

 この寺を建てた英勝院は太田道灌の四代の孫太田康資の娘で、徳川家康に仕えて、お勝の局と呼ばれていた。後に、水戸家初代の徳川頼房の養母になった人である。そして、家康の死後、落飾して、英勝院と称し、寛永十三年(1636)、祖先の地に英勝寺を創建したのである。

 開山は頼房の娘小良姫(さらひめ)で、寺領も多く豊かな寺として続き、代々の住職に水戸家の娘を迎えてきた。英勝院は寛永十九年(1640)に、65歳で世を去り、その墓塔は水戸家第二代の徳川光圀によって建てられた。

道路より奥まった所に、徳川家の三葉葵の紋を付けた屋根を持つ総門がある。その先を進むと、徳川家の三葉葵と太田家の桔梗を組み合わせた通用門がある。ここから境内に入ると、現存している江戸時代初期の仏殿、鐘楼、唐門、祠堂が見える。

 総門のそばには、「袴腰」という形の黒い鐘楼があり、これは寛永二十年(1643)作で、林羅山の文も見受けられる。奥に入ると、仏殿があり、仏殿には、徳川家光寄進の阿弥陀三尊像を中心に、善導大師、法然大師の木像が安置されている。

 仏殿の先には、唐門と祠堂があり、唐門をくぐると、やや高くなっている所に、英勝院を祀る祠堂がある。祠堂は鞘堂という風雨を防ぐために覆いをかけられた建物の中にあり、金粉や極彩色の文様は同じころに造られた日光東照宮の美しさを思わせるみごとなものと言われている。