天照山蓮華院光明寺:浄土宗

 「鎌倉駅」から「逗子駅」行きのバスに乗り、「光明寺」で下車。バス停のすぐ先を左折すると、光明寺の総門とその後ろの山門が見える。光明寺は天照山という山号を持つ浄土宗の寺で、鎌倉でも大きな寺の一つである。

 総門の右手前には、「関東総本山」と刻み込まれた石柱とその右手には、「大本山光明寺」と書かれた石柱が立っている。総門の欄間に龍の彫刻が施され、「勅願寺」の額が掲げられている。

 総門を入ると、白い塀を巡らせた広い境内があり、左手の堀越しに、千手院、右手に蓮乗院があり、正面に山門(三門)が聳え立っている。この山門は鎌倉最大と言われ、屋根が二重の門で、現在のものは弘化四年(1847)に再建されたものである。

 山門に架かる「天照山」の額の文字は後花園天皇が書いたと言われ、裏に、永享八年(1436)と書かれている。山門の二階には、釈迦如来、文殊菩薩、四天王、十六羅漢木像が安置され、お十夜のときなどに公開されている。

 山門をくぐると、正面に本堂があり、本堂に向かって左手に開山堂、右手に鐘楼がある。開山堂の裏手には、客殿、庫裏、本坊、書院の建物が並んでいる。

 光明寺の開基は鎌倉幕府第四代執権北条経時と言われ、経時は鎌倉に入った良忠のために、仁治元年(1240)佐介ヶ谷に蓮華寺を建て、寛元元年(1243)、現在の所に移して、光明寺と改名したのが光明寺の始まりと言われている。

 また、一説には、大仏(北条)朝直が帰依している良忠のために、佐介ヶ谷に悟真寺を起こし、それが光明寺になったという。それに加えて、蓮華寺のもとは悟真寺であると伝える文書もあると言われる。

 このことから、まず、悟真寺という名の寺が佐介ヶ谷に創建され、次いで、蓮華寺、さらに、光明寺と改称されたと考えられるともいう。

 良忠は浄土宗を始めた法然の弟子聖光から教えを受けて、諸国を廻り、鎌倉にやって来た。良忠がその当時の政治の中心地鎌倉に住んだことで、浄土宗が関東から東北地方にかけて広まったという。

 良忠は弘安十年(1287)亡くなったが、永仁元年(1240)に、徳が高く、学問に深く洞察を持っていたため、伏見天皇から、「記主禅師」の名を賜ったと伝えられる。

 その後、光明寺第九代住職の観譽祐崇(かんよゆうそう)が、後花園天皇の招きにより上洛し、宮中で『阿弥陀経』を講義したことにより、明応四年(1495)、光明寺は勅願寺となり、住職は代々の紫衣着用と十夜念仏の法要を勅許されたという。

 光明寺はその後一時衰退したが、江戸時代に徳川家康が浄土宗の学問所として関東の主な寺院十八寺を十八檀林と定めたとき、光明寺は江戸の増上寺に次ぐ学問所として選ばれ、大いに栄えた。

 光明寺は家康など徳川将軍家から寺領の寄進を受けただけでなく、大名の内藤家からも寄進を受け、内藤家の菩提寺になり、大名家の寺として栄えてきた。

 本堂は天井・欄間・柱などが美しく極楽浄土を思わせ、中央に本尊の阿弥陀三尊像が祀られ、その脇左奥に、法然上人像や如意輪観音坐像、右奥には、弁財天と善導大師木像が安置されている。善導大師は中国の高僧で、日本の浄土宗のもとを作り、法然に厚く信仰されていた人であった。

 本堂に向かって右手には、「三尊五祖来迎の庭」があり、本堂に上がって見ることができる。この庭は浄土宗の枯山水の庭園で、庭に配置された秩父青石は三尊五祖を表しているという。三尊とは、阿弥陀如来と観音・勢至菩薩を言い、五祖とは、釈迦・善導・法然・聖光・良忠をいう。

 寺宝には、鎌倉国宝館に寄託されている鎌倉時代の『当麻曼荼羅縁起絵巻』二巻や『浄土五祖絵伝』、『浄土五祖絵』など、多数の絵画があるという。

 開山堂左手前に、「ここに鎌倉アカデミアありき」と記された「鎌倉アカデミア碑」が立てられている。鎌倉アカデミアは昭和二十一年(1946)に、新しい人材育成を目指して、哲学者三枝博音を学長として開校された自主大学校である。

 本堂と庫裏を教室として、鎌倉在住の学者や作家などを教授陣に迎えて話題を呼んだが、昭和二十五年(1950)財政難と不認可のために閉校せざるを得なくなってしまったという。