随我山来迎寺:時宗

 五所神社から出て、鳥居の前の細い道を右に100mほど行くと、右手に随我山という山号を持つ時宗の来迎寺(らいごうじ)がある。

 来迎寺会館を右に見て、寺の門を入ると、正面に本堂がある。本堂には、三浦大介義明の守護仏という木像阿弥陀三尊像(室町時代)と子育て観音と言われる聖観音像が安置されている。

 ここはもと、源頼朝が建久五年(1194)に、三浦半島の衣笠城において、八十九歳で戦死した三浦大介義明の菩提を弔うために建てた真言宗の能蔵寺という寺であったが、その後、来迎寺の開山となった音阿が時宗に改宗して寺の名を改めたという。鎌倉三十三か所観音霊場第十四番札所でもある。

 三浦大介義明は相模の国三浦荘を本拠とする有力武士団の嫡流として、世襲の官である三浦介を称してきた。その後、六十歳ごろから、三浦大介と自称し、周囲も容認していたのだろう。

 治承四年(1180)、頼朝の挙兵に呼応して、石橋山の戦いに、長子義澄以下の一族を派遣して助勢しようとしたが、悪天候に阻まれて果たせず、引き上げた。

 その後、平家方の畠山重忠軍に衣笠城を攻められ落城し、義明は義澄ら一族を安房に行かせ、自らは一人城に留まって最期を遂げた。義明は源氏再興のために、老躯を捧げ、頼朝に尽くし、三浦氏一族の繁栄の礎を築いた。

 本堂の右には、二浦義明の墓(供養塔)と石橋山の戦いに敗れて三浦に引き返す途中で、畠山重忠軍に殺された三浦一族の多々羅三郎重春の墓と伝えられる五輪塔二基が並んでいる。

 本堂裏手の広場には、「三浦大介公の家来の墓」と表示された100数基の小さな五輪塔などが並んでいる。