金沢の六浦の港へ

 「梶原太刀洗水」を過ぎ、100mほどの所に、「朝夷奈切通」と書かれた史蹟指導標が立っている。この辺りから、切り取られた山肌が両側から壁のように迫り、道と小川に挟むように続く。この道が鎌倉七切通の一つ「朝夷奈切通」であった。

 今は別に新道が開かれ、「鎌倉駅」と「金沢八景駅」を結ぶバスも往来しているが、旧道は鎌倉から金沢を経て、横浜に出る主要な道路で、鎌倉時代からこの峠を開き、道路を通じなければならない必要性に迫られていた。

 というのは、金沢の六浦の津は古くから波穏やかな天然の良港とされ、また、生活に必要な製塩地でもあった。この切通が整備される前の貞永元年(1232)に、和賀江島の築港が成って、船舶の接岸が可能になったが、波濤に悩まされることが解消されたわけではなかったし、六浦の港は安房・上総・下総の東国を始め、中国からの交易品集散の地として、重要な役割を持っていたからである。

 鎌倉幕府第三代執権北条泰時は仁治元年(1240)に、鎌倉・六浦間に道路を造ることを決め、泰時自らも実地検分や工事に立ち会った。そして、御家人たちの尽力もあり、非常に短期間で完成に漕ぎ着けた。

 あまりにも早い完成は、武将の朝夷奈三郎義秀が剛力を駆使して、一夜でこの峠を切り開いたという伝説を生み、その結果、「朝夷奈切通」の名が付けられたと言う。

 朝夷奈三郎義秀は源頼朝に早くから仕えて、初代の侍所別当に任命された和田義盛の三男で、武勇の誉れが高く、鎌倉武士の手本のような人だった。

 しかし、北条氏が和田義盛を除こうとしたとき、和田義秀は家来たちとよく父を助けて、先頭に立って戦った。それでも、父義盛を始め、兄弟一族が皆討死したため、捲土重来を計って、落ち延びようとして、海上から安房の国に逃げたという。

 その後の義秀の消息は分かっていないと伝えられる。