二階堂

 鎌倉宮を出た所で、横切っている道(二階堂大路)に出会う。向かい側はテニスコートで、右折するとすぐに、テニスコートが尽き、そこに「永福寺舊蹟」の史蹟指導評が立っている。その隣に、発掘調査の状況や判明した伽藍・庭園の図面などを記した史蹟の案内がある。

 源頼朝は文治五年(1189)、奥州藤原氏征討を果たして鎌倉に帰着した。そして、かの地で目にした中尊寺・毛越寺・無量光院などの仏閣の中でもとりわけ、中尊寺二階大堂(大長寿院)の威容に胸を打たれた。そこで、それをまねて、永福寺(ようふくじ)の建立を企てたのである。

 頼朝は永福寺を二階堂とも別称し、建立の目的は源平争乱以後、源義経や藤原泰衡始め、奥州合戦に至る間に戦没した多くの霊を供養するものとしていたが、頼朝の勢威を幕府内外に誇示する意図もあったと言われている。

 永福寺は建久三年(1192)十一月に竣工され、翌年に阿弥陀堂、さらにその翌年に、薬師堂の供養が行われ、三堂がそろった。東に面した二階堂を中心に、左右対称で、北に薬師堂、南に阿弥陀堂の両脇堂が配され、三堂の前には、広い池が作られた。

 本堂は二重軒の瓦葺で、二階の三堂が両翼を張った姿は宇治の平等院に似ていて、多宝塔・鐘楼・回廊・別当坊・供僧坊などが立ち並び、中の島や釣殿もあり、ヤナギ・桜・梅などの木々も植えられた。

 そして、永福寺は鶴岡八幡宮寺、勝長寿院(大御堂)とともに、鎌倉三大寺の一つとして、京から鎌倉に訪れた人々も必ず参詣したという。

 鎌倉時代の代々の将軍もしばしば訪れたといい、鎌倉幕府滅亡後も、室町時代の鎌倉公方との結びつきがあり安泰で、さらに、元弘三年(1333)に、足利義詮が永福寺別当坊に滞在し、足利尊氏も建武二年(1335)、並びに、文和元年(1352)に鎌倉入りしたときには、永福寺別当坊に滞在したと伝えられる。

 その後、応永十二年(1405)に火災に遭い、また、鎌倉公方の足利持氏が永享十年(1438)に起こった「永享の乱」で敗死し、遺児の足利成氏(古河公方)が鎌倉を去ったころから衰え始め、そして、室町時代の末期には廃絶してしまったと伝えられる。