「關取場跡」の史蹟指導標を過ぎて、金沢八景方面に200mほど行くと、「歌の橋」に着く。

 明和四年(1767)に、江戸から鎌倉にやって来た女性の日記『東路の日記』は、「朝比奈の切通から鎌倉に入り、滑川を渡り、荏柄天神に参拝して、歌の橋を渡った。もとは鎌倉十橋という名高い橋の一つであったが、川の流れも細くなり、橋も名ばかりの小さな土橋であった。段葛は鳥居の前の真ん中左右に土で小高く築いた上に芝を植えたもので、その外側は道が広く、塵も無く商家が立ち続いていたので、昔栄えた所らしく思えた。その夜は雪ノ下の宿屋に泊まった」と伝えているという。

 歌の橋は謀反を企てたという渋川刑部六郎兼守が死刑に処せられることになった所で、兼守は悲しみのあまり、和歌を十首詠んで、荏柄天神に奉納した。それを聞いた鎌倉幕府第三代将軍源実朝は罪を許した。

 許された兼守はその恩に報い、橋を作って神徳への感謝を表したと伝えられる。その橋が歌の橋である。この日記に出てくる鎌倉十橋は歌の橋を除いて、以下のとおりである。

・筋替橋=小町大路と金沢方面の六浦路が合流する所で、交通の要所だった。

・夷堂橋=昔、夷堂があったと伝えられる。

・逆川橋=水の流れがあたかも逆行するように見えることから、その流れを逆川と呼んだ。

・乱橋=新田義貞が鎌倉を攻めたとき、北条勢がこの橋あたりから崩れ始めたので。

・勝の橋=英勝寺開山のお勝の局がかけた橋であることからこの名がある。

・裁許橋=ここに問注所があり、裁許を受けた人たちが佇んだ。

・琵琶橋=下馬四つ角の南辺りで、そこには琵琶小路が走り、そこにかかる橋ということで。

・針摩橋=この近くに針磨きをなり合いにしていた人たちが住んでいた。

・十王堂橋=北鎌倉の山ノ内かかる橋で、十王堂が近くにあったため。