中には五輪塔

 「鎌倉駅」から「大塔宮」や「金沢八景」方面行きのバスに乗り、「岐れ道(わかれみち)」で下車して、左(北)に曲がって少し行くと、清泉小学校があり、その清泉小学校の北東側に鎌倉幕府の東の門があった。

 源頼朝は大倉に鎌倉幕府を(御所)を建てたときに、四方に門を作った。そして、その東側の門を東御門(ひがしみかど)というようになり、同じように西側の門を西御門(にしみかど)と呼び、そのあたりの地名になっている。

 東御門の北の方は入り組んだ谷戸(やと)になっていて、現在、山の中腹まで住宅が建てられている。昭和三十五年(1960)2月、宅地造成のため山を切り崩していたときに、埋もれていたやぐらが発見された。

 やぐらの中には多くの五輪塔があり、その周りにも、壊れた五輪塔が散らばっていた。これらを一か所に集めて整理したのが東御門やぐらで、ここの五輪塔の一つには、延慶元年(1308)の年号が刻まれていた。

 五輪塔のほとんどが鎌倉石と呼ばれる砂礫岩(されきがん)で造られたもので、高さが1mのものから50cmのものまで、ほぼ完全な形で残り、やぐらの入り口と中に、96基が並んでいたという。

 しかし、現在では、民家の敷地の中に入っていて見ることができない。