在りし日の栄華の跡

 「文學上人屋敷迹」の史蹟指導標から左(南東)に30mほど進み、そして、右に入り150mほど行くと、「勝長壽院舊蹟」の史蹟指導標が目に入る。この辺りは「勝長寿院」を南の御堂(みどう)とか大御堂(おおみどう)とも言ったことから、大御堂ヶ谷(おおみどうがやつ)と言われている。

 勝長寿院は源頼朝が父義朝の菩提を弔うために建立した寺で、義朝は平治の乱で敗れ、東国に逃げる途中、現在の愛知県知多半島の内海という所で殺された。

元暦元年(1184)に、鎌倉に入った頼朝はこの地に父義朝の霊を慰めるために寺を建てることにして、後白河法皇に廟を建てることを願い出た。

 後白河法皇は頼朝の願いを受け入れ、文治元年(1185)に、義朝の首を送って来た。そこで、頼朝は稲瀬川まで迎えに出たと伝えられる。首を受け取った頼朝は奈良から仏師成朝を招き、金色の阿弥陀仏を作らせ、さらに、僧の公顕による勝長寿院の開堂儀式を行ったのである。

 鎌倉幕府第三代将軍源実朝は父頼朝を偲んで、しばしばこの御堂にお参りしていたが、承久元年(1219)正月二十七日、甥の公暁に殺害され、翌日に勝長壽院のそばに葬られた。

 息子実朝を失った北条政子は貞応二年(1223)二月に、この御堂の奥に、新御堂とも御所とも言われた家を建てて住んだと言う。

 勝長寿院は鶴岡八幡宮寺、永福寺とともに、鎌倉の三大寺院と呼ばれるほど栄えていたが、鎌倉幕府が滅びたころから、寺も衰え、やがて滅亡していった。そして、江戸時代になると、ほとんど廃寺化されてしまった。

 現在は静かな谷戸(やと)の住宅地の一角に立つ「勝長壽院舊蹟」の史蹟指導標のみが在り日の御堂の跡を伝えている。