鎌倉幕府滅亡へ

 湘南モノレールを「湘南深沢駅」で下車。大船方面に進むと、「富士塚小学校入り口」の交差点を100mほど過ぎた坂の左側に、「洲崎古戦場」と刻まれた史蹟指導標が立っている。

 新田義貞が元弘三年(1333)に鎌倉を攻めたとき、この地で北条軍と激しく戦った。この辺り一帯はその当時、洲崎郷と呼ばれていた。新田義貞は北条軍を倒すために、大軍を率いて、鎌倉めざして進んできた。

 そして、新田軍は破竹の勢いで攻め込み、北条軍はこの洲崎で押し返そうとする計画を立て、鎌倉幕府最後の執権赤橋守時が大将となって数万の大軍で新田軍に挑んだ。そのとき、赤橋守時は足利尊氏の妻の兄であったが、「自分は足利氏の親戚である。だからと言って、ここでもし降伏したら、新田軍と内通していたと思われる。それこそ武士の恥である」と叫んで、洲崎の千代塚という所で切腹した。

 守時の死によって、北条軍は総崩れとなり、化粧坂・葛原岡まで敗走した。それでも、新田軍は手を緩めず、梶原山から化粧坂に攻め込み、山ノ内や極楽寺坂・稲村ケ崎からの軍勢とともに、鎌倉に乱入した。

 新田軍と北条軍による激しい戦いの後、生き残っていた高時ら北条一門以下北条軍は東勝寺で自らの命を絶った。鎌倉幕府は滅亡を迎えたのである。