おはようございます。
ワインに合う簡単料理研究家:今田香澄です。
今日、2/28は、「織部の日」です。
岐阜県土岐市が1988(昭和63)年この日を「織部の日」に制定し、市ではさまざまな記念事業を行っています
1599(慶長4)年のこの日、千利休亡き後の豊臣秀吉の茶頭・古田織部が、自分で焼いた茶器を用いて茶会を開きました。
この器が後に織部焼と呼ばれるようになりました。
また、2/28は茶道の開祖・千利休自刃の日でもあります。
1591年(天正19)2月28日、千家流茶の湯の開祖・千利休は、豊臣秀吉の命で自刃して果てました。
利休は、侘茶の心を「一期一会」と説き、まるで自らの悲劇の最期を暗示するような言葉を残しています。
わび茶(草庵の茶)の完成者として知られ、茶聖とも称せられる。
また、今井宗久・津田宗及と共に茶湯の天下三宗匠と称せられ、「利休七哲」に代表される数多くの弟子を抱えました。
子孫は茶道の三千家として続いています。
天下人・豊臣秀吉の側近という一面もあり、秀吉が旧主・織田信長から継承した「御茶湯御政道」のなかで多くの大名にも影響力をもちました。
しかしやがて秀吉との関係に齟齬を生じ、最後は切腹へと追い込まれました。
切腹を命ぜらるに至った真相については諸説あって定まっていません。
以上が千利休についてです。
利休の自刃後に高弟の古田織部が秀吉の茶頭となりました。
古田織部は、千利休の高弟7人を指す「利休七哲」のひとりとされ、利休死後は「天下の茶人」となるほどの腕前。
1582年ごろの千利休の書簡に古田織部の名前が書いてあったことから、この間に利休に弟子入りしたのだと考えられています。
古田織部の実夫である古田重定(勘阿弥)もまた茶道に造詣が深いこともあり、古田織部も茶人としての素質が磨かれていたのでしょう。
千利休の「人とは違うことをしろ」という教えを守り、静謐な利休の美とは異なり、激しく動的で、 大胆でありつつ自由な美を確立していきました。
徳川家康の息子、徳川秀忠の茶の指南役として徳川家に従事していたのですが、利休の「反骨精神」をしっかりと受け継いでいた古田織部は、 江戸幕府の方針・意向を無視することもしばしば。
茶人として確固たる地位を手に入れて、織部の自由奔放な茶が人気を集め始めると、家康は織部が利休のように政治的影響力を持つことを恐れるようになりました。
豊臣家と内通していたという嫌疑をかけられ、豊臣家との 和平工作も企てたとして切腹を命ぜられました。
茶の師弟関係にあった、千利休と古田織部。
似通った人生を送ることになるのですね。
この時代、茶の湯が権力を持つ道具になり得たということでしょうか。
ならば、この時代、茶をたてるのも命がけ。
例え、命が危険にさらされたとしても自分の好みを押し通すのが、茶人というものなのでしょう。
さらにその後を。
織部の弟子が小堀遠州です。
小堀遠州は、はじめ豊臣秀長の家臣でしたが、やがて徳川幕府のもとで大名になります。
遠州は織部の創作的な茶の湯を受け継いで、新しい時代にふさわしい創作を果たします。
織部の持っていた激しいアンバランスな美はすっかり姿を消し、新しい安定した時代にふさわしい優美で均衡のとれたきれいさびといわれる茶の湯を創造しました。
こうした織部と遠州という大名茶の系譜は、のちに片桐石州に受け継がれ、武家方の茶道として江戸時代を通じて継承されています。