庭園樹としての北山台杉の歴史的背景と管理技術  | 自然とともに生きる。 庭友の庭つくり

庭園樹としての北山台杉の歴史的背景と管理技術 

 

すこし、庭園樹としての北山台杉が見直されている部分があるので

書き記しておこうと思う。

 

 

北山台杉はそもそも建築用材を生産していた生産木として、京都北山町中川地区で室町時代から産出していたと言われている。

 

 

軒先に差し出される「垂木」を主に生産し、古木、大型台杉に関しては床柱サイズの丸太も

生産していたと口伝として継がれている。

 

                   図:白杉北山丸太憮養法(日下部太助 明治32年)

 

建築用材生産木として長い歴史、管理されてきた北山台杉であるが、

その管理育成法には、独特の手法が用いられている。

特殊な枝打ち鎌を用い、その鎌と木梯子を持って急峻な北山の育成地に分け入り、

何千本ともなる台杉を育成管理していく。

 

長い年月をかけて技術革新を積み重ねてきた管理育成法は

人の範疇を越える、自然との共存意識が組み込まれ、

簡単に記すことができないほどである。

 

このように特殊な育成管理法により、建築用材生産木として生き続けてきた北山台杉が

どのように庭園木化されてきたか。

 

                             写真:北山台杉生産者 自宅の庭 

文献の考察から、明治43年にのちの大正天皇が命じ、この中川地区から東宮御所に移植されたというのが一番有力である。(京都日出新聞 大正2年11月20日)

その他、明治期での使用記述が多く残っており、庭園木化していったのは明治43年の新聞以降と考えて良いだろう。

 

そして、昭和30年以降の高度経済成長によるマイホームブームで大流行する事になるが、

その時点で建築用材(主に台杉の垂木)の生産が一気に激減していった事に注目すべき点がある。

背景として、当時、建築に関する法律の改正がおこなわれ、消防法の改正により

垂木の使用に制限がくわえられた事が言え、反面、床柱などの丸太においては

消防法の範疇外であった事から、一気に需要が高まった。

 

つまり、生産需要がなくなった北山台杉を掘り起こし、庭園に植え付けていった歴史がある。

また、「庭付き一戸建て」というマイホームブームのうたい文句にあやかる形で、

和室に設えた床の間の床柱(北山丸太)と同産地の北山台杉を使う庭を専売方法として

おこなっていった事が大衆化につながった。

このころ、中川地区では「台杉を山ごと買う」というほど大量に移植されていたことが

聞き取り調査によって明らかになっている。

 

以降、台杉は庭園樹の生産者により、模造の台杉が生産される程にメジャー化され、

そういった台杉が北山台杉ブランドとして今もなお流通している。

 

このように庭園樹化していった北山台杉であるが

その上で庭園樹としての管理技術はどうなのか。

 

 

一般大衆化して行った北山台杉は本来の台杉としての管理方法を無視するかたちで

植えられている事例が多い。

 

庭園樹の観点からは、これらは「杉の仕立て物・台杉風」と位置付けて良いだろう。

良い意味でとらえると、台杉が発想の根底にあり、それがデザイン進化した形が上写真の物だ。本来の形を目指した管理がなされていないが、庭園や景観樹木の観点から言うと

真意は分からないが、これも一つの庭園樹である。

 

管理方法において本来の北山台杉を庭園で使うに当たり必須すべきことは

やはり、庭園樹として意にそぐわない部分である「垂木生産」を可能とする

方法をまずは押さえていかないといけないと思う。

また、庭園のデザイン面においても、北山台杉を使う意味を明確にし、

その意味には必然的に独自の管理技術が付随してこそ成り立つ樹木である事を

理解していかなければならないと言える。

 

 

庭園樹化していった上で、「北山台杉」として庭で生きづづける管理方法を

模索しながらこれまでの庭師は管理をおこなってきた。

本場の生産管理方法を主体に、美感性に優れる形を追い求めて独自に

孝案した技術を付け加えながら。

これらの技術はこの場で書き記す事が出来ないが、意味を理解しさえすれば

おのずと見えてくるかと思う。

 

 

余談であるが、今まさに、庭園樹としての北山台杉と同じ歴史を歩もうとする樹木の

大衆化する部分が垣間見られる。

生産木の庭園樹化による大衆化は、社会的背景に作用され、

生産木の所有者を助けながらも、大衆化によって意味のない庭園樹となる歴史が

北山台杉から読み取れる。

 

今まさに世に出ようとしている樹木の行く末は、庭師の手にかかっていると

いって過言ではないだろう。