手持ちの資料から情報を探すたびに、何故デジタル化しておかなかったのか…と毎回思っていたので、これを機会に資料の一部などをメモとしてここに残しておこうと思います。

 

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引用資料:

【落部村郷土史】

第一編 村況

第二章 維新前の村況

(二)移民渡来

 

従時本村は、千古斧鉞(せんこふえつ)の加えらざる密林中に、熊、狼の咆哮せし藩境にして、愛奴人が落部川、野田追川畔に数十戸の聚落を為せしに過ぎず、和人は夏に至れば入稼し、秋漁期を終れば切場帰国して土着するもの無かったが、宝暦14年3月 南部佐井浦の相木久右衛門、津軽根岸の相木仁三右衛門、掛村治郎兵衛の三戸相伴って落部に移住した。

是が本村最初の移民である。

 

従来各種の記載に相木仁三右衛門 外二戸の渡来を明和元年3月とせるも明和元年は6月2日改元なるに依り宝暦14年を至当とす。

其後移住者あり、明和4年野田追を本村とせしも、落部は移住者多かりしを以って安永5年に協議して落部を本村と改めた。

 

函館市船見本願寺支院(浄玄寺)墓地に天保2年造営にかかる最初の移民三名の墓碑建立あり「相木久右衛門 マルキュウ 南部佐井浦産」一基。「掛村次郎兵衛 相木仁三右衛門 カネキュウ 津軽根岸産」と連名のもの一基がある。

仁三右衛門の後裔は本章後段に詳記あり、次郎兵衛の子孫は八雲町に現住し、久右衛門の後裔は茅部郡臼尻村へ移住し、更に磯谷郡磯谷村へ転じた。

 

函館市立図書館所蔵「三悦雑記」は安永9年8月下旬、三悦の著述にて神話を内容とするが、此の表紙に「能戸屋 相木久右衛門 所有」と書かれ、イチヤママル竹内屋の捺印がある。竹内屋は野田追場所請負人川崎屋新六と共に旅人宿を営んだ竹内屋興兵衛である。

相木久右衛門から竹内屋興兵衛に譲渡し、竹内屋の後裔から市立図書館へ寄贈せしものなるが、推考するに三悦とは相木仁三右衛門の雅号にして、仁三右衛門は神信者にして村社八幡宮も彼の建立と称され、或は「仁三右衛門神信に法悦する」の意味にて三悦と号せしに非ずやと考慮される。

若し然りとすれば本村最古のの記述なるも、更に今後の研究に待つ。

 

相木サワ氏談(嘉永6年落部生まれ。名主文作養女。現在)

「曽父 仁三右衛門の書いた本で、軍談物等随分ありました。然し方々へ呉れたりして今私の処にはありませんが、本には三悦と書いてあった事は記憶して居ります。」

 

幕府蝦夷地御用掛松平信濃守、石川左近将監、羽太庄左衛門等相議し、東蝦夷地六個場所は和人漸増せる故をもって、幕府の裁可を得て和人地と改めたのは享和元年4月12日にて、即ち本村は蝦夷地改め村並となったのである。此の時、亀田村より蝦夷地御用係員出張し来り、落部を本村、野田追、茂無部を支郷と為し、由追、沼尻を支郷野田追領と定めた。其年11月村役人を定め、相木仁三右衛門を百姓代に任命し、更に野田追、茂無部に小頭を置いた。

 

「北海道史」第一、第三編第四十七章「當時代町村の職制は大村を名主として裃を小村は村並と称し、役人を百姓代として羽織袴の着用を許され、任免は官にあるも干渉を受くる事なく村の公務を処理せり。」

別冊附録文献「休明光記附録」巻五、「建使前茅部郡各村の景況」参照

 

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叔父である相木一三郎が調べてまとめた家系図。

我が家に残る家系図はこれくらいしかない…

 

現在の相木家が管理している五基の墓。

一番手前の一基は現在の落部内で一番古いらしい。

(実はこれより古い墓が寺所有で存在していたが、相当昔に博打のお守りとして削りに削られ、無くなってしまったと伝えられている)

 

三基目にある墓だが、この下に遺骨が入っていると言う話は聞いたことがなく、親族内の話では叔父が函館から持ってきたものだとか。

刻まれている文字から、落部村郷土史に書かれている浄玄寺の墓地から持ち込まれたものと思われる。