ZOOMを体感して
遅ればせながらZOOMを仕事のMTGで初体験。
ZOOM飲み会の誘いも以前あったが、正直その時は嫌悪感を抱いた。
『そこまでして飲む必要があるのか』と思ったし、なんだか強制される感じも嫌だった。
結局流れてほっとしたのが正直な感想だが、この時世の潮流の乗ってどうせならやっておけば良かったとも思う。
果たしてコロナ禍が収束した後もZOOM飲みの流れは残っているだろうか。
さて、ZOOM会議を体験して率直に思ったことは、『悪くない』だった。
ZOOMの使い勝手も悪くないし、家庭の通信環境でもシームレスに会話ができたし、使い易さは想像以上だった。
この『悪くない』は言い換えれば『アリかも』であり、この『アリかも』と思わされた感覚は大きい。食わず嫌いだったオンラインミーティングのハードルが一気に下がり、今まで時間を使って移動してMTGしていたのが無駄に思えるほど。
ただし実際に会わなくてはならないリアルMTGは絶対にある。
時間とお金を使って移動しなければならないMTGにはその価値があるからだ。
しかしそうではないMTGもあるだろうし、「電話やメールよりはオンラインMTGの方が」というシーンがあるかもしれない。
要は『オンラインMTG』という選択肢が増えた感覚だ。
この話は、電話、メール、実際に会う、もしくはオンラインMTG、どれが良いかな、と考える可能性があると感じるのだ。
これまでオプション的感覚だった”オンライン”という選択が、
コロナ禍によって強制的に体験した人たちが、未体験アレルギーを克服したことにより、標準の選択肢として存在しはじめる。
リアルの価値が高まるのと同時にオンライン価値が見出され、そのハイブリッドが普通になりつつあるのかもしれない。
翻って、果たしてオンライン飲みもこの思考回路になるだろうか。
今日はリアルに集まって飲むか、ZOOMにするか・・・なんて。
やっぱり、実際に会って、そのお店でしか味わえない料理と空気を共に共有しつつ飲むのは何にも代えがたい。相手の表情がつぶさに分かるし、スキンシップも取れる。”同じ空気”を吸うのはとても大事だ。
でも、オンラインは物理的距離などの制限を超える、地方にいる親類や海外の友達との距離を一気に縮める。
相手や場所などの条件によってZOOM飲みは生き続けるかも知れない。
『おう、久しぶり!あいつは?』
『今日あいつはオンラインで参加するってよ』
みたいに、一部の人だけオンラインで参加する飲み会もあるのかもしれないのか。
イベントの今後
新型コロナウィルスによりイベントの自粛が続いている。
コンサートやライブなどエンターテインメントとしてのイベント、街頭キャンペーンや商品PRなど企業広告・販促活動としてのイベント、余暇を楽しむためのパーティや屋外活動などのプライベートなイベント。
人と人との接触なくしてはイベントは成立しない。
新しい生活様式が提唱される中、今後イベントはどうなるのか。
eコマースの隆盛によりオンライン消費が拡大していく中、店舗販売はもはや不要ではないかと思うこともあるが、やはりどうしてもオンラインでは買いたくない、実際に手に取って買いたいものや見たいものがある。
オンラインの消費社会は利便性をもたらした一方で、味気なさを感じる。『いつでもどこでも手に入れられる』事は便利さと引き換えに、愛着や満足感を失っているような気がするのだ。
現在のコロナの影響により、コンサートやライブも今後オンライン化が進むのではないかと言われているが、僕はそうは思わない。
音楽は生モノでその場で感じる臨場感はオンラインでは体験できない。
憧れのアーティストを前にした感動は画面越しには感じられない。
オンラインは物理的な距離を超える。今までもライブのオンライン配信などは行われていた。その利点は少なくともある。
ただし、同じ空間を共有するイベントはなくならないし、その価値はこれまで以上に上がるのではないかと思っている。
オンラインで提供できる価値、ライブで提供できる価値、それらの価値の線引きがよりハッキリとし、イベントの価値はこれまで以上に高まるのではないかと考えている。
企業イベントやキャンペーンなどもオンライン、放送、イベントと複数チャネルの役割を改めて考えていく必要がある。
イベントの価値は下がらない、以前よりその価値は上がると思う。
オンラインとライブの相乗効果を図ることがこれからの在り方ではないかと思う。
気付き力
気付きのレベルはどうすれば上がるのか。
何かの事象に対し、とっさに気付く人は気付くのだ。
一方気付かない人は気付かない。
この差は一体どこから生まれるのだろうか。
具体的な例を持ち出すと分かり易いだろうか。
あるプロモーションにおいて、
目玉の配布物が予想以上に早く終了した。
会場への誘引策として、告知チラシを遠隔配布していたが、
誘引して、配布物がないという状況になるため、配布中止となった。
ここで、とられた行動はリスク回避。
主催者サイドへのクレームの可能性があるため、他情報は記載されていたものの、
配布を即中止。
…
正しい判断だと思われる。
ポイントは配布物が終了した後、一瞬にしてそのことに気付くことだ。
このレスポンスの速さが結果の違いを生む。
正しく・速く判断することが重要なのだ。
このスキルを上げるためにはどうすればよいのか。
まず、全ての行動・事象には結果を左右する要素があるという前提を念頭に置いているかが大切である。
ロジックツリーのようにピラミッドの頂点からYes・Noで選択をしていくと、
初めは2つしかなかった選択肢もどんどん増え、最終的な結論は全く違うものになる。
要するに、
「何かが動くと何かが変わる」
ということだ。
次の行動に移る前に、どんな影響があるのかを考えることは勿論だが、
自分の周囲にも目を向け、
自分の周りだけが、変化するのではなく、全体も変化することを前提に、
アンテナを高く、
どう行動すべきかを自問自答し、判断のスピードを上げる努力をすべきだ。
『気付く』能力を是非上げていきたい。
時間の使い方について
「時間はあっという間に過ぎていく」ということは、誰もが思うところ。
しかし、改善したいと思うだけで、ダラダラと過してしまうのが治らないのも
誰もが抱える悩みではないか。
なぜ治らないのか。
少し思う節があるので、それについて考えてみようと思う。
仕事には締め切りや期限があり、逆算してスケジュールが組まれていく。
実にシンプル。
しかし、イレギュラーがおきたり、何かと当初の予定通りとはいかないのが現状。
でも、締め切りや期限は待ってはくれないので、無理してでも合わせていく。
いわば、強制的に時間に拘束されているのだ。
変わって、プライベート…
「仕事で疲れたから」といって、休みくらいはとダラダラ。。。
一日が終わって多少の後悔。
でも、仕事みたいにいつも時間に追われてバタバタしたくない気も。
一体どうすれば。。。
これまでずっと悩み続け、悶々とし、明快な答えが出ないままずっと過ごしてきたように思う。
ここらでいい加減解決したい。
そこで、考えた。
まず、時間の価値観=人生の価値観 ではないかと。
とすると、今まで「時間をうまく使えていない」というところから解決に入ろうとしていたところを
逆に「人生の価値観」からアプローチしてみる。
人生の価値観
難しいが、自分の性格も含めてアバウトにどんな人生が幸せかを考えてみる。
少し具体的に以下の3つのカテゴリーに分けて考察。
仕事 → 成功したい → 社会的価値創造 → 収入と地位
家庭 → 結婚・子供 → 思い出 → 家族サービス
趣味 → 自己向上 → 趣味と勉強 → 休日の充実
書き出してみると難題だ。
ダラダラはしていられないことは一目瞭然。
となると、
時間のすごし方は戦略的にならなければならない。
仕事とプライベート
バランスを考慮しながら、かつ目的達成を意識した時間の過ごし方。
各項目にフラグ(ゴール)設定を行い、時間軸で達成方法と必要時間、更に具体的な実行必須項目を
考える必要がある。
また改めて考えてみる。
講習会にて
講師によるセミナーの引き込まれ度合い。面白さの差。
歴然たる差を感じた項目。
抑揚
例え話
曖昧さがない
一方的に話さない
“間”の取り方
聴講者の視線を操る
聴講者の理解度の把握
抑揚話のトーン、口調、語尾、文末表現がワンパターンで変化がないと耳に入りにくく記憶にも残りずらい。おまけに睡魔を誘うこと間違いなし。
例え話抽象的な表現の羅列は理解しにくく、具体イメージが伴っていないため記憶にもとどまりにくい。身近な例示により記憶定着を図る。例えば、共通の仕事に当てはめるなど。
曖昧さがない曖昧さが際立つテーマの場合(コンセプト策定など)、具体例を用いるなどして理解深度を高めることが肝要。具体行動に反映されない情報伝達は無用。
一方的に話さない講師は一方的に講義しがちだが、できれば聴講者も参加するような双方向的な形式の方が望ましい。質問したり、賛同を求めたりするだけで効果あり。
“間”の取り方リズムに変化を付けることにより飽きさせず、集中力を持続させる。また共通理解度を高める為に進行速度を調節する役目もある。
聴講者の視線を操る話を聞かせるのか、スクリーンに注目させるのか、手元の資料を読ませるのか、聴講者に求める行動を取らせるには視線を誘導してあげる。講師がイニシアチブを取る。
聴講者の理解度を把握客観的に状況判断を行い、一方的に進めない。聴講者の理解度を確認しながら進行する。
引き込ませるトークにはポイントがある。何かを教える類のものは上記項目が欠かせないと考える。
ブログでメモる!
故にメモとして思い付いたことをアップしておこうと考えた。
が、携帯からの入力性は悪く、考えたことが抜けてしまうこともある。
イメージ化も出来ない。
メモはやはり手書きがいい。
『意識の問題』
逆もまた然り。
…
物事の本質を見抜くことは難しく、考察の域を超え経験則をもってしても正解であるかを確かめることは容易ではない。
しかし、『意識する』ことによって見えてくるものもある。
では、『意識する』とはどのような状態を指すのか。
よく耳にする言葉に
・アンテナが高い
・トレンドに敏感
・意識が高い
といったものがある。
これらの言葉は一般的に褒め言葉として用いられ、信頼される。
時流を的確捉え、利をもたらす能力だ。
では、このような力は如何に身に付けることができるのか。
ポイントを考えてみる。
『心眼』という言葉があるが、見た目の派手さや華やかさなど視覚に影響を受けやすい人間への戒めの言葉として理解できる。
正道を求め理想を追うのならば『心』で見抜かなければならないのだ。
つまり、何を見て取るべきかを常に自分に問うことに他ならない。これが『意識する』ことだ。
例えば、事実と感情を分けて考える。疑問を持つ。逆思考・他の角度、視点を用いる。
こういったことを常日頃から実行することが大切だ。自然に行えるようになった時違う世界が開けるかも知れない。
また、このような能力を持つ人達は気遣いの達人である場合も多い。周りが見えていて、自分がどのような環境・立場にいるかを即座に把握しているということだ。
…
やるぞ。
自分らしいということ
率直に感じた瞬間が確かにあった…気がした。
これまでの自分の生き方、感性、“自分”という個体の捉え方。
どちらかというと“自分”は世の中を客観的に把握し、個性を尊重しながら生きてきた自負があった…気がした。
しかし、いつからだろうか。この違和感は。
上手く生きてきた感覚がまるで手からすり抜けるように安定感がない。偽りの自分だったのか。
“自分”は自分が一番知ってるはずなのに。
知らなかったんだ。
それとも知ろうとしなかったのか。
そもそも“自分”なんてあるのか。自分の意思とは関係なく存在する個体と外からの刺激によって形成されていく精神の融合体に“個性”というものが存在しうるのか。“自分”というものは限りなく不確かであり、唯一確かなのは瞬間的に『選択』という権利があることだけだ。しかし、そもそも“自分”という感覚が怪しく、環境によって創られた幻想ならば、社会に当てはめられているに過ぎない。
究極的には人間は何もできない。物質の根源を創ることは出来ないからだ。地球上に存在する物質を取捨選択し形を変化させているに過ぎない。
しかし、一見平等とも見えるこの世界には個体差が確に存在している。なぜ生まれるのか。
『感情』があるからだ。喜怒哀楽が『選択』を変える。ここに差が生まれる。しかし、感情も環境から影響を受ける。
つまるところ、この世界には絶対的な“自分”はなく、過ごしてきた環境による感情の差が異なる選択をさせ、その『選択』を第三者が個性と見なしているに過ぎない。
それにしても、これまで形成されてきた“自分”を変えることはできない。
今後、“自分らしく”生きていくヒントは、その結果を受け入れ、これからの『選択』に役立てていくしかない。
内なる声に耳を立てながら。
